大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

静岡地方裁判所 昭和58年(た)1号 決定

本籍《省略》

(仙台拘置支所在監)

請求人 赤堀政夫

昭和四年五月一八日生

右請求人に対する昭和二九年(わ)第一五六号強姦致傷、殺人被告事件について、昭和三三年五月二三日静岡地方裁判所が言い渡した有罪の確定判決に対し、請求人から再審の請求があったので、当裁判所は、請求人、弁護人及び検察官の各意見を聴いたうえ、次のとおり決定する。

主文

本件について再審を開始する。

請求人に対する死刑の執行を停止する。

理由

第一確定判決

一  請求人は、昭和三三年五月二三日、静岡地方裁判所(以下「原第一審」という。)において、強姦致傷、殺人被告事件により死刑の有罪判決言渡しを受け、これに対して順次控訴、上告を申し立てたが、昭和三五年二月一七日東京高等裁判所(以下「原第二審」という。)において控訴棄却の、昭和三五年一二月一五日最高裁判所において上告棄却の各判決がなされ、更に右上告棄却の判決に対して請求人から判決訂正の申立がなされたが同月二六日棄却決定があり、前記原第一審判決が確定した(以下この確定した原第一審判決を「確定判決」という。)。

二  右確定判決において認定された事実は、

請求人は、本籍地で履物商を営んでいた小林半左衛門とその内縁の妻赤堀まさ江とのあいだに生生し、生来知能程度が低く、軽度の精神薄弱であって、学業も振わなかったが、昭和一九年三月土地の国民学校高等科を卒業後、川崎市の東北振興精密株式会社や日本光学島田工場で工員として働いているうちに終戦を迎え、本籍地の実家に戻って土工などをしていたが、しばしば窃盗の所為があって再三刑に服し、昭和二八年七月ころ最後の刑を終えて再び実家に戻った。その後、請求人は、定職もなく、兄嫁の実家の手伝いをしたり、日雇労務者として働いていたが、その間諸処を放浪して歩くこともあり、昭和二九年一月下旬から同年二月下旬ころには、二回位上京したことがあった。

そうして、同年三月三日、請求人は、家人から職を捜すようにいわれて、自宅(右本籍地の実家)を出て東方に向かったが、職を求めようともせず、物貰いをしながら、浮浪生活を続け、同月七日ころには、島田市近郊に立ち戻って、同月九日夜は、志太郡大長村伊太字東川根薬師庵に仮泊した。

(罪となるべき事実)

請求人は、翌三月一〇日午前一〇時ころ、島田市幸町にある快林寺の墓地に赴き、同所で供物を捜したが見当たらないので、墓地から本堂前の広場に赴いたところ、同所にある島田幼稚園講堂で遊戯会が催されていたので、その入口付近に行って女児の遊戯を見ているうち、にわかに情欲にかられ、幼女を運れ出して姦淫しようと考えるに至った。そこで、請求人は、付近を見回したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久子(昭和二二年一一月二二日生、当時六歳三か月)(以下「被害者」という。)を見つけ、右講堂前に出されていた売店で菓子を買い与えたうえ、「いいところへ連れて行ってやる。」と誘い、同日正午ころ、同女を伴って島田駅前道路から、同駅線路下のトンネルを経て、大井川旧提防を越え、横井グランドを横切って大井川新堤防に出で、同女を姦淫するに適当な場所を捜したが見当たらないので、河原を下流に向かって旧堤防に登り、同女を背負ったまま、蓬莱橋を渡って右折し、更にその道の途中から山林に立ち入って、静岡県榛原郡初倉村坂本沼伏原四九二五番地の人目につかぬ山林に至った。請求人は、ぼんやりしている佐野久子をその場に降ろすや、情欲を抑えることができず、やにわに同女をその場に押し倒し、泣き叫ぶ同女の下半身を裸体にし、その上に乗りかかって姦淫し、その結果同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗し、意のままにならぬのでひどく腹をたて、同女を殺害し併せて犯行の発覚を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石(証第一〇号)(以下「本件石」という。)を右手に持って、同女の胸部を数回強打したうえ、両手で同女の頸部を強く締めつけ、同日午後二時ころ同所において、同女を窒息死させた、

というものである。

三  確定判決の証拠の摘示欄によると、右の認定に供された証拠としては、

1  判示冒頭の事実について、

(一) 原第一審第七回公判調書中の請求人の供述記載部分

(二) 請求人の原第一審第一〇、一五、一八回各公判廷における各供述

(三) 請求人の検察官に対する第一回、第三回供述調書及び司法警察員に対する昭和二九年五月二八日付、同月三一日付(二通)、同年六月二日付、同月九日付(原第一審記録六四九丁以下の分)各供述調書

(四) 原第一審第五回公判調書中の証人赤堀一雄、同赤堀ムツミの各供述記載部分

(五) 証人赤堀一雄、同赤堀ムツミの原第一審公判廷(第一九回)における各供述

(六) 証人松浦武志の原第一審公判廷(第一七、一九回)における供述、昭和三二年五月一四日付静岡測候所長作成の気象状況調査について回答と題する書面、同月一六日付御前崎測候所長作成の気象照会についての回答と題する書面、大河原運送株式会社作成の桜井弘昭の給料計算基礎表(以上の各証拠により、松浦武志が昭和二九年三月七日午前一〇時過ぎ、雨が小降りとなったので、榛原郡初倉村坂本の桜井弘昭方に赴く途中、同村通称前の坂地内で、被告人と出会い、自転車に乗せて坂の下自転車屋前付近で降ろして別れた事実が認められる。)

(七) 証人小山睦子、同小山政治、同野木鉄次の原第一審公判廷(第一七回)における各供述、野木鉄次の司法巡査に対する供述調書(以上の各証拠により、小山政治が昭和二九年三月六日榛原郡下川根村湯島の山の仕事に約二〇日間泊りがけで出かけた後、三、四日たった日の夕方、同人の娘小山睦子が小学校から帰宅後被告人の実家付近で、被告人に依頼され荷物を同人の実家に届けたことが認められる。)

(八) 原第一審第九回公判調書中の証人粥川義昭の供述記載部分及び同人の検察官に対する供述調書

(九) 巡査部長飯田宙一外一名作成の昭和二九年六月五日付捜査報告書(判示薬師庵の状況に関するもの)

(一〇) 鑑定人林暲、同鈴木喬作成の鑑定書及び原第一審第九回公判調書中の証人鈴木喬の供述記載部分

があり、

2  罪となるべき事実について、

(一一) 請求人の検察官に対する第一ないし第三回、第五、六回各供述調書及び司法警察員に対する昭和二九年五月三〇日付、同月三一日付(原第一審記録五六五丁以下の分)、同年六月一日付、同月二日付、同月五日付、同月六日付、同月七日付、同月八日付(原第一審記録六三八丁以下の分)各供述調書(以下これらを総称して「自白調書」という。)並びに裁判官の請求人に対する勾留質問調書

(一二) 原第一審第二回公判調書中の証人鈴木鉄蔵、同中野ナツ、同松野みつの各供述記載部分

(一三) 原第一審第三回公判調書中の証人太田原ます子の供述記載部分及び第九回公判調書中の証人太田原松雄の供述記載部分

(一四) 原第一審裁判所の証人中野ナツ、同松野みつ、同橋本秀夫、同橋本すえに対する各尋問調書

(一五) 鑑定人古畑種基の原第一審公判廷(第二一回)における供述

(一六) 原第一審裁判所が昭和二九年一二月一五日行った検証、原第一審受命裁判官が昭和三一年一一月一六日行った検証の各検証調書

(一七) 司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書及び同年六月一日付実況見分調書

(一八) 医師鈴木完夫作成の昭和二九年三月二五日付鑑定書(以下「鈴木鑑定書」という。)

(一九) 佐野久子の戸籍謄本

(二〇) 押収してある薄桃色メリヤス裏ネル肌着シャツ、木綿白子供用ズロース、ネル子供用ズロース、化繊緑色子供ワンピース、桃色毛糸セーター、赤色毛糸カーディガン各一着、白木綿ソックス、綿茶色靴下各一足、大人用駒下駄一足(原第一審昭和二九年領第一一二号の一ないし九)、拳大変形三角型石一個(同押号の一〇)、中古鼠色セルジャンバー、チャック付ジャンバー、浅黄色古ズボン各一着(同押号の一一ないし一三)

が挙示されている。

四  請求人は、原第一審の公判において捜査段階での自白を翻して犯行を否認し、犯行当時は物貰いをしながら東京へ行った帰りで犯行場所である島田市にはいなかった旨のアリバイを主張し、原第一審弁護人においても、請求人のアリバイを主張するほか、請求人の自白調書の任意性、信用性を争い、捜査官は捜査の過程で知り得た知識に基き不当に請求人を追及して虚偽の自白をさせたため、請求人の供述は客観的な事実と相違する点が存して真実性がないし、犯行当日請求人を目撃したという者の供述には疑わしい点がある旨主張したが、原第一審裁判所は次の理由で前記確定判決の事実を認定した。

すなわち、まず、アリバイの点については、証人松浦武志、同小山睦子の各供述を信用し、その裏付けとなる証拠と相俟って、請求人は昭和二九年三月七日ないし九日ころは島田市又はその近郊にいたものと判断し、請求人がアリバイとして述べている事実のうちには、同人がいつの日かに直接体験した事実もあると考えざるを得ないが、それを、請求人が犯行をするのは不可能であるとするような同人の供述した日時に結び付けるに足りるものがない、としてこれを排斥した。

次に、自白調書の任意性、信用性の点については、まず、任意性を認める積極的根拠として、

1  請求人は、捜査官に対し、本件犯行現場のように一般人には容易に知り得ない場所を、供述調書において自ら進んで図示していること、

2  請求人は、犯行順序について、被害者が死亡する以前にその胸部を石で殴打した旨供述し、これが古畑鑑定人の鑑定結果と一致しているところ、この点は、請求人を取り調べた当時すでに作成されていた鈴木鑑定書によると、胸部の傷は死後のものと推定される旨の記載があって古畑鑑定人の鑑定結果と逆であるし、しかも、そもそも、捜査官は当時鈴木鑑定書を精読していなかったというのであるから、右の点に関する請求人の供述を追及しなかったと思われ、そうすれば、犯行の重要な部分について捜査官が既得の知識に基いて供述を強要したものでないことは明らかであり、しかもその供述が真実に合致すると認められることは看過し得ないこと、

3  捜査の経過によると、被害者の左胸部の傷の成傷用器は、鈴木鑑定書によればこれを判定できないとされており、捜査官もその凶器を推定できなかったのに、請求人の供述によって初めて右傷が本件石で殴打することによってできたものであることが判明したこと、

等の諸点を総合して、請求人の自白調書は任意性があり、かつ、請求人が自白したときの状況、態度、証拠物を示されたときの言動、留置場内での発言等を併せ考え、犯行についての自白調書は信用性が高い、とした。

更に、犯行当日請求人を目撃したとする者の供述については、

1  当時大井川にかかっていた蓬莱橋の橋番で、橋銭を払わないで前を通って行った若い男の横顔を目撃し、これが請求人と似ている旨供述する鈴木鉄蔵の供述については、請求人が本件犯行の犯人であることを認定せしめる証拠としてかなり有力である。

2  犯行当日犯人を目撃した太田原松雄が請求人の面通しをした際の言動を目撃した同人の祖母太田原ます子の供述は、誇張のきらいはあるが、松雄が犯人を目撃したこと、警察署で請求人をその犯人であると指摘したこと、その他の一〇名位の容疑者や一〇〇余枚の写真に写されている人物について松雄がいずれも犯人とは異なる旨答えたことはいずれも真実であって、松雄が請求人を犯人であると指摘した事実から直ちに請求人が犯人であるとまで認定するのは伝聞法則に反するといえるかもしれないが、松雄が公判廷では当時の記憶を喪失していて十分な供述をなし得ないこと、前記のとおり松雄が、他の場合には、同人が見せられた容疑者や写真の人物は犯人と異なる旨を供述していることからすると、松雄が請求人を犯人であると指摘したことには相当の理由がある。

3  中野ナツの供述は、正確な記憶に基くものとは認められず、犯人の服装、容貌に関する印象、記憶はあいまいであるが、犯人の横顔が請求人と似ていることや犯人の歩いた経路を証明するに足りる。

4  松野みつ、橋本秀夫、橋本すえの各供述も、犯人の歩いた経路を明らかにすることができる、

として、それぞれの供述を評価している。

五  右のとおり、確定判決において認定された事実、その証拠関係及び認定の理由に関する説示をみると、犯行当日、犯行前に犯人と思われる若い男が被害者と思われる女児を連れ歩いているのを目撃した者等はいるものの、これらの供述が右の男と請求人との同一性について疑義をいれる余地のないほど確実性があるものとは説示していないのみならず、犯行自体の目撃者はいないのであって、請求人を犯行と直接結び付ける証拠としては、請求人の捜査段階における自白調書と、犯行を自認した、裁判官の請求人に対する前記勾留質問調書があるだけである。右自白調書によると、確定判決の認定に照応する本件犯行及びその前後の模様が一応具体的かつ詳細に述べられており、犯行自体を主として裏付けるものとしては、被害者の死体発見時の現場を検分した司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書、右死体を解剖した医師鈴木完夫作成の鈴木鑑定書、被害者の受傷の経過等に関する鑑定人古畑種基の原第一審公判廷(第二一回)における供述及び本件石の存在があるのであって、これらの証拠が、確定判決において認定された罪となるべき事実の中核をなす実行行為認定の重要な基礎になっているものと思われる。もっとも、右各証拠中、犯行自体を主として裏付ける証拠として挙示されたものは、請求人と犯行との結び付きという観点からみれば、これらの証拠が、唯一の直接的証拠である請求人の自白調書の信用性を担保し得て初めて、請求人を有罪と認定し得る証拠になるというべきである。その意味からすると、確定判決が、犯行順序について、前記のとおり被害者が死亡する以前にその胸部を石で殴打した旨の請求人の自白が古畑鑑定の結果と一致していることをもって請求人の自白調書に任意性、信用性があることの重要な根拠としているのであるから、犯行順序について、古畑鑑定が右自白調書の任意性、信用性を担保する支柱となっているものということができる。

第二再審請求

一  第一次再審請求

請求人は、昭和三六年八月一七日、静岡地方裁判所に再審を請求した。その理由の要旨は、請求人のアリバイを立証する新証拠として、昭和二九年三月一二日ころ請求人と行動を共にした岡本佐太郎を証人として取り調べられたいというものであったが、同裁判所は、岡本佐太郎の所在が全く不明で容易にその取調べをなし得ないのであるから、右再審請求は不適式なものであるとして、昭和三七年二月二八日付決定でこれを棄却した。

この決定は、即時抗告の申立がなく確定した。

二  第二次再審請求

請求人は、昭和三九年六月六日静岡地方裁判所受付の再審請求書をもって同裁判所に再審を請求した。その理由の要旨は、(一)本件犯行現場付近の大井川の河原に遺留された犯人の足跡と考えられるものは、請求人のものでない事実、(二)本件石は、請求人の任意の自白によって初めて発見されたものではなく、本件に全く無関係で、本件犯行当時犯行現場にも存在していなかった事実、をそれぞれ証明できる明らかな証拠をあらたに発見した、というものであったが、静岡地方裁判所は、請求人の申出にかかる各証拠は刑事訴訟法四三五条六号所定の事由に当たらないとして、昭和三九年一〇月三日付決定でこれを棄却した。

この決定に対して、弁護人から即時抗告の申立があったが、東京高等裁判所は、右決定を維持し、昭和四〇年一一月二五日付決定でこれを棄却した。

最高裁判所は、弁護人からの特別抗告を、昭和四一年二月八日付決定で棄却した。

三  第三次再審請求

請求人は、昭和四一年四月一五日、静岡地方裁判所に再審を請求したが、同裁判所は、右請求書には刑事訴訟規則二八三条所定の資料の添付がなく、又、再審理由の記載を欠如する不適式なものとして、昭和四一年六月八日付決定でこれを棄却した。

この決定は、即時抗告の申立がなく確定した。

四  第四次再審請求(本件再審請求)

1  本件再審請求は、昭和四四年五月九日、請求人から静岡地方裁判所に出された。

その主たる理由は、(一)弁護人の提出した北条春光作成の鑑定書、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付、昭和四七年四月六日付各鑑定書、上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付鑑定書(これらの鑑定書を総称して、「新鑑定」ということがある。)によって、(1)請求人が自白調書において述べているような被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入しただけでは被害者の陰部の損傷は起きないこと、(2)本件石による殴打では被害者の胸部損傷はできないこと、(3)被害者に加えられた犯行順序は、まず強姦し、次いで胸部を殴打した後、扼殺したというものでないことが明らかとなり、したがって、請求人の自白調書の任意性、信用性が否定されること、(二)本件犯行当日に請求人のアリバイがあること、等を骨子とするものである。

2  静岡地方裁判所は、昭和五二年三月一一日付決定(以下「原棄却決定」という。)で本件再審請求を棄却した(原棄却決定をした静岡地方裁判所を以下「原審」という。)が、その理由の要旨は次のとおりである。すなわち、原棄却決定は新鑑定の新規性を肯定したうえで、

(一) 新鑑定によっても、(1)被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入したという請求人の供述が真実に反するということはできず、又、新鑑定は、(2)本件石で被害者の胸部を殴りつけたという請求人の供述に合理的な疑いをいれる程度のものではないが、(3)被害者の陰部及び胸部の各損傷は頸部絞扼の後に生じたものであるとする合理的疑いがあり、自白調書を再検討すべき必要を明らかにした新証拠といい得る。しかし、右の疑いは、他の旧証拠と総合すれば、いまだ請求人の自白調書の任意性、信用性を否定するに至っていない。

(二) 弁護人が提出した新証拠によっても、本件犯行当日の請求人のアリバイは認められない。

(三) 前記(一)(3)の犯行順序は、確定判決が認定した強姦致傷罪と殺人罪との併合罪の関係ではなく、殺人罪と強姦致死罪との観念的競合の関係になるが、このような罪数関係の変更は、刑事訴訟法四三五条六号所定の、無罪を言い渡したり、確定判決において認めた罪より軽い罪を認める場合に当たるものではない、

等の認定、判断をしている。

3  請求人及び弁護人は、原棄却決定に対し東京高等裁判所(以下「抗告審」という。)に即時抗告を申し立てたが、その理由の骨子は、(一)新証拠によって、被害者の陰部損傷及び胸部損傷の各成傷用器並びに被害者の受けた犯行の順序についての確定判決の各事実認定に合理的疑いを生じ、それとともに請求人の自白調書の任意性、信用性が否定され、又、請求人のアリバイも成立することになるのに、これら新証拠の新規性或いは明白性を排斥して再審請求を棄却した原棄却決定には、事実誤認、法令解釈の誤り、判例違反、審理不尽の違法がある、(二)更に、抗告審において、本件犯行現場付近の大井川の河原に遺留された犯人の足跡と考えられる靴跡が皮短靴であり、請求人の自白するゴム半長靴の足跡と一致しないこと、被害者の死後経過時間が相違し、したがって犯行日が請求人の自白と異なること、かつ、本件石は自白により発見されたものでないことについての新証拠が発見され、請求人に無罪を言い渡すべきことが明らかになった、というのである。

4  抗告審は、昭和五八年五月二三日付決定(以下「差戻決定」という。)で、原棄却決定を取り消し、静岡地方裁判所に差し戻した(差戻しを受けた静岡地方裁判所を以下「当審」ともいう。)。その理由の要旨は次のとおりである。すなわち、

(一) 犯行の順序に関する新鑑定によると、被害者の陰部及び胸部の損傷時期はいずれも頸部絞扼よりも後であるとする合理的な疑いがあるとした原棄却決定の判断は是認でき、頸部絞扼が最後であるとした確定判決の認定は誤認の疑いが濃厚であるから、確定判決と同旨の犯行順序を供述している請求人の自白調書は再吟味を余儀なくされている。そして、陰部損傷及び胸部損傷の各成傷用器に関する自白も種々の疑念が存在し、右の点に関する自白が真実に反しないとする原棄却決定の判断をそのまま是認することはできない。

(二) 原棄却決定は、犯行順序に関する請求人の自白に合理的な疑いが生じたことを認めながら、請求人の自白調書自体の信用性を否定することはできない根拠として種々の点を掲げているが、その大半は、自白と同様の請求人の供述であり、客観的事実と符合するか否かによって証明力を評価すべきであるし、他方、石沢岩吉の検察官に対する供述調書謄本等によれば、本件石は請求人の自供以前に発見されており、本件石発見の経過が、原棄却決定が強調する「秘密の暴露」にあたらないのではないかとの疑惑が生じるし、又、目撃者の供述は、請求人との同一性について疑義をいれる余地のないほどの確実性はなく、同目撃者らは本件犯行それ自体を現認しておらず、右供述だけでは請求人の犯行を確定することはできないので、原棄却決定が掲げる諸点をもってしても、請求人の自白調書の信用性を根拠づけるには十分でない。加えて、犯行後の足どりに関する請求人の自白調書の中には、明らかに客観的事実に反する供述がある。

(三) 原棄却決定が、請求人の自供する犯行の順序に合理的疑いが生じたとしながら、信用性の欠如をこの点にのみ限定し、請求人を犯人とする自白調書の信用性を全面的に失わせるものでないと判断したのは早計に過ぎる。新鑑定につき、検討、洞察を深め、更に、本件石の発見経過、本件石に血液、リンパ液その他の体液付着の有無、足跡等に関する証拠を取り調べ、審理を尽くすならば、疑わしきは被告人の利益にとの原則に従い、確定判決の有罪の認定を覆す蓋然性もあり得る。したがって、原棄却決定が、原審における事実取調べのみで新鑑定の明白性を否定し再審請求を棄却したのは審理不尽の違法がある、

というものである。

第三本件再審請求の審理

一  本件再審請求の趣旨及び理由

本件再審請求の趣旨及び理由は、請求人作成名義の昭和四四年五月九日付再審申立書、弁護人作成名義の昭和四四年七月二四日付再審請求理由書、同年一二月八日付再審請求理由補充書(一)、昭和四五年九月二九日付再審請求理由補充書(二)、同年一二月二八日付再審請求理由補充書(三)、昭和四六年一〇月一六日付再審請求理由補充書(四)、昭和四八年六月一二日付再審理由補充書、昭和五一年六月三〇日付再審請求理由補充書、同年一一月三〇日付再審請求理由補充並びに意見書、昭和六一年一月一六日付意見書及び同月一七日付意見書(補充)記載のとおりであるから、これらを引用する。

二  検察官の意見

本件再審請求に対する検察官の意見は、検察官作成名義の昭和四四年八月一八日付意見書、昭和五一年一二月一〇日付意見陳述書、昭和五二年三月四日付意見陳述書(補充)及び昭和六一年一月一六日付意見書記載のとおりであるから、これらを引用する。

三  当裁判所が事実の取調べとして取り調べた証拠等の範囲

1  差戻決定前の原審における証拠

(一) 弁護人請求分

(1) 芹田孝一作成の外川神社周辺の見取図一枚及び写真一葉

(2) 昭和四五年六月二六日実施の証人芹田孝一の尋問調書

(3) 右同日実施の外川神社及びその付近の検証調書

(4) 右同日実施の光安寺の検証調書

(5) 弁護士田中敏夫作成の昭和四五年七月三一日付東京弁護士会長宛の照会請求書写及び東京弁護士会長作成の昭和四五年八月一三日付報告書

(6) 山城多三郎撮影にかかる昭和二九年五月当時の金谷民生寮及び同月二七日当時の同寮における請求人の各写真各一枚

(7) 山城多三郎の弁護士に対する供述録取書

(8) 草山テイの弁護士に対する供述録取書

(9) 金谷民生寮の「一時保護取扱記録」写

(10) 北条春光作成の昭和四六年二月一五日付鑑定書

(11) 太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付鑑定書

(12) 太田伸一郎作成の昭和四七年四月六日付鑑定書

(13) 昭和四八年九月一七日実施の証人兼鑑定人鈴木完夫の尋問調書

(14) 右同日実施の証人兼鑑定人太田伸一郎の尋問調書

(15) 昭和四八年一一月一九日実施の証人兼鑑定人太田伸一郎の尋問調書

(16) 右同日押収にかかる太田鑑定に供した模型の石一個(原審裁判所昭和四八年押第二〇四号(抗告審裁判所昭和五二年押第二四九号)の一)、模型の肺臓一個(同二)、模型の胸廓一個(同三)

(17) 上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付鑑定書

(18) 昭和四九年一一月一九日実施の証人兼鑑定人上田政雄の尋問調書

(19) 農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月、三月の各気象表写

(20) 昭和二九年三月一一日付中日新聞、同日付静岡新聞夕刊、同月一五日付中日新聞朝刊、同年五月二五日付中日新聞夕刊、同日付静岡新聞夕刊、同月二六日付中日新聞朝刊、同日付毎日新聞朝刊、同日付静岡新聞夕刊の各記事写

(21) 昭和五一年一〇月一六日実施の証人簗瀬好充の尋問調書

(22) 昭和二九年三月一日発行の時刻表(浜松ないし東京間下り、上り時刻表及び運賃表)写

(23) 請求人の小鍛治格宛封書写

(24) 仙石原観測所の昭和二九年三月の月表写

(25) 相馬誠一撮影の「パンくずをもらったと思われる家」付近の写真二葉の各写

(26) 気象庁所管の観測原簿拡大複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)

(27) 日本臨床心理学会編集の臨床心理学研究一四巻二号

(28) 日本臨床心理学会総会代表奥村直史作成の「赤堀裁判とその精神鑑定書における差別性についての意見書」と題する書面

(29) 上田政雄作成の昭和五一年一一月三一日付鑑定書

(30) 上田政雄作成の昭和五一年一二月一〇日付鑑定書訂正追加

(二) 検察官請求分

(1) 井上剛作成の昭和五〇年一一月二〇日付鑑定書

(三) 職権

(1) 昭和四九年一一月二〇日実施の請求人本人の尋問調書

2  抗告審における証拠

(一) 弁護人請求分

(1) 助川義寛作成の昭和五三年四月二二日付鑑定書

(2) 船尾忠孝作成の昭和五三年一〇月四日付鑑定書

(3) 速記録(「島田事件鈴木信雄弁護士弁護活動経過」と題されたもの)写

(4) 平沢彌一郎作成の昭和五五年一月三一日付鑑定書及び足跡鑑定に関する資料

(5) 昭和二九年三月七日付朝日新聞夕刊、同日付毎日新聞朝刊、同日付日本経済新聞朝刊の各記事写

(6) 宮内義之介著「法医学」(一二、一八頁)写

(7) 平沢彌一郎外一名著「歩行のパターン」(四九ないし五六頁)写

(8) ランツ「下肢臨床解剖学」図面四葉写

(9) 昭和二三年ないし昭和五四年までの御陣屋稲荷奉納帳の写真八葉

(10) 昭和二九年三月一四日付静岡民報記事写

(11) 石沢岩吉の検察官に対する昭和五四年七月一三日付供述調書二通(六枚綴り、二枚綴り)の各謄本

(12) 検察官黒瀬忠義作成の昭和五五年七月一〇日付事実取調請求書

(二) 検察官請求分

(1) 鈴木完夫の検察官に対する昭和五四年七月一四日付供述調書謄本

(2) 法務省刑事局編集の検察資料「足跡の研究」(五四、五五頁)写

3  差戻決定後の当審における証拠

(一) 弁護人請求分

(1) 昭和五八年一一月二九日実施の証人石沢岩吉の尋問調書

(2) 昭和五九年三月一九日実施の証人平沢彌一郎の尋問調書

(3) 弁護士照会請求に対する仙台拘置支所長の昭和五四年一二月二〇日付回答写

(4) 弁護士照会請求に対する仙台拘置支所長の昭和五五年一月二八日付回答写

(5) 弁護士照会請求に対する株式会社ミツウマの昭和五四年一二月一七日付回答写

(6) 平沢彌一郎著「足のうらをはかる」

(7) 平沢彌一郎「日本人の直立能力について」写(人類学雑誌八七巻二号)

(8) 馬場和朗「日本人の足部形態に関する統計学的研究」写(久留米医学会雑誌四二巻六号)

(9) 平沢彌一郎「接地足蹠面積と直立姿勢の安定についての研究」写(三重医学会雑誌四巻六号)

(10) 平沢彌一郎「Stasiologyからみた左足と右足」写(神経進歩二四巻三号)

(11) 平沢彌一郎「直立歩行を支える左足」(サイエンス一一巻六号)

(12) 平沢彌一郎「スタシオロジー(身体静止学)から見た瓜生堂・巨摩廃寺両遺跡の足跡」写(大阪府埋蔵文化発掘調査概要報告書)

(13) 城哲男外九名著「学生のための法医学」(一〇一頁)写

(14) 宮内義之介著「法医学」(七三頁)写

(15) 朝倉了外一名著「法学部法医学」(一〇四、一〇五頁)写

(16) 古田莞爾著「法医学の基礎知識」(一一七頁)写

(17) 石山昱夫編著「現代の法医学」(三九頁)写

(18) 太田伸一郎作成の昭和六〇年五月一二日付意見書

(19) 判例時報九七〇号(五三ないし六六頁)(三億円保険金殺人事件第一審判決)写

(20) 判例時報一〇九〇号(六一ないし六八頁)(免田事件再審無罪判決)写

(21) 四方一郎外一名編「現代の法医学」(八九、九〇頁)写

(22) 内藤道興作成の昭和六〇年八月二〇日付意見書

(23) 太田伸一郎作成の昭和六〇年八月一〇日付意見補充書

(24) 上野正吉著「新法医学」(九七、九八頁)写

(25) 四方一郎外一名編「現代の法医学」(九一頁)写

(26) 富田功一著「法律家のための法医学」(三〇〇ないし三〇二頁)写

(27) 二木茂治作成の「冒頭陳述書に関しての反論」写

(28) 太田伸一郎作成の昭和六〇年九月二三日付意見補充書(二)

(29) 弁護人作成の昭和六〇年九月九日付回答依頼書及び助川義寛作成の昭和六〇年九月二四日付回答書

(30) 内藤道興作成の昭和六〇年一〇月三〇日付補充意見書

(二) 検察官請求分

(1) 昭和二九年三月一四日付毎日新聞、同日付読売新聞、同日付朝日新聞、同日付静岡新聞、同日付産業経済新聞の各記事写

(2) 昭和二九年六月三日付静岡民報記事写

(3) 昭和二九年六月二日付読売新聞、同日付中部日本新聞、同月四日付毎日新聞の各記事写

(4) 森山實、鈴木茂男及び平田行雄の検察官に対する各供述調書謄本

(5) 鈴木完夫の検察官に対する昭和五八年一一月一日付供述調書謄本

(6) 昭和五八年一二月二〇日実施の証人北条節次の尋問調書

(7) 昭和五九年二月一七日実施の証人山田正義の尋問調書

(8) 鈴木完夫の検察官に対する昭和五九年三月二九日付供述調書謄本

(9) 昭和五九年四月二三日実施の証人鈴木完夫の尋問調書

(10) 加藤一雄外一名編「良いクツの基礎知識」

(11) 検察官の月星化成株式会社商品開発第一課に対する昭和五九年二月二七日付捜査関係事項照会書謄本及びこれに対する月星化成株式会社商品開発第一課の同年三月七日付回答書及び添付資料

(12) 押収してある黒ゴム長靴右片足(当審昭和六〇年押第八二号の一)

(13) 昭和五九年六月四日実施の証人鈴木完夫の尋問調書

(14) 昭和五九年七月一〇日実施の証人鈴木完夫の尋問調書

(15) 四方一郎外一名編「現代の法医学」(五二頁)写

(16) 上野正吉著「新法医学」(六四、一三九頁)写

(17) 牧角三郎作成の昭和六〇年二月一日付鑑定書

(18) 牧角三郎作成の昭和六〇年二月五日付鑑定書補遺

(19) 昭和六〇年三月一二日実施の証人牧角三郎の尋問調書

(20) 捜査関係事項照会書に対する西丸與一作成の昭和五九年八月二九日付回答書謄本

(21) 角田昭夫編「小児救急診療ハンドブック」(八〇頁)写

(22) 小林登編「新小児医学大系」(一九八〇)(三三八ないし三四〇頁)写

(23) 小林登編「新小児医学大系」(一九八三)(一四〇ないし一四八頁)写

(24) 糟谷清一郎著「小児骨折の治療」(二〇四頁)写

(25) 小林登編「新小児医学大系」(一九八三)(一六〇、一六一頁)写

(26) 小林登編「新小児医学大系」(一九八二)(五六頁)写

(27) 佐藤武雄外二名「急激死亡人屍流動性血液に関する研究」(信州大学紀要)写

(28) 牧角三郎外五名「割創の特異性について」(福岡医学雑誌七五巻三号)

(29) 法医学雑誌抄録(牧角三郎外)写

「刺創口の生成機転に関する高速度解析」、「刺創口の生成機転に関する高速度解析」、「刺創口のできるときの高速度解析所見」、「創傷の生成機転に関する高速度解析―刺創と刺切創について―」、「刺切創における刺入部位の判別」、「棒状鈍体の打撲による二重条痕の生成機転」、「指による打撲実験」、「法医解剖の意義」、「挫裂創の生成機転に関する高速度解析」、「創傷の生成機転に関する研究(総括)」

(30) 九大医学部同窓会誌「退官記念牧角三郎教授」写

(31) 赤石英編「臨床医のための法医学」(四一ないし四三頁)写

(32) 検察官作成の昭和六〇年三月一五日付報告書(県有財産撤去台帳関係分)謄本

(33) 検察官作成の右同日付報告書(国有財産譲渡綴関係分)謄本

(34) 山口守雄の検察官に対する供述調書謄本

(35) 国有財産譲渡綴一冊(当審昭和六〇年押第八二号の二)

(36) 県有財産撤去台帳一冊(同押号の三)

(37) 静岡県警察本部刑事部刑事総務課長作成の任意提出書

(38) 検察官作成の領置調書

(39) 牧角三郎作成の昭和六〇年四月一八日付参考資料

(40) 静岡地方気象台長作成の「気象資料の照会について(回答)」謄本

(41) 下級裁判所刑事裁判例集九巻六号八二五頁(昭和四二年六月一日判決・千葉地裁松戸支部)写

(42) 東京高等裁判所刑事裁判速報(二三二四)(昭和五三年一二月二二日判決・東京高裁)写

(43) 松本俊三「生活反応としての組織内出血と其の雨による変化」(日本法医学雑誌九巻三号二〇四、二〇五頁)写

(44) カウノ・ライホ「生前と死後の皮下出血における線維素に関する免疫組織化学的研究」写

(45) 判決謄本(昭和三七年六月一三日福岡地裁久留米支部)

(46) アラン・リチャード・モリッツ「外傷の病理学」(二〇六ないし二〇八頁)写

(47) ゴードン・ターナー・プライス「法医学」(六五七、六五八頁)写

(48) ゴンザレス・バンス・ヘルパーン・アンバーガー「法医学、病理学及び毒物学」(二一三頁)写

(49) 鈴木完夫作成の昭和六〇年七月四日付意見書

(50) 牧角三郎作成の昭和六〇年七月三一日付意見書

(51) 斉藤照成の検察官に対する供述調書謄本

(52) 鈴木完夫の検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付供述調書謄本

(53) 井上剛著「新法医学(前編)」(二八四ないし二八九頁)写

(54) ディートリッヒ「法医学的な目的のための創傷の検討の際の医師の医学上の鑑定の実際」三巻(四五、四六、六一、六五、三二五頁)写

(55) ワルチャー「鈍力による損傷における医学的、自然科学的、犯罪学的検査」(六四九頁)写

(56) ワルチャー「外力による死亡の際の判断における生活反応」(一九八頁)写

(57) ムエラー「法医学」(二五〇、二九六、三七三頁)写

(58) ゴードン外「法医学」(六一〇頁)写

(59) ディーツ「法医学」(五〇頁)写

(60) ハンセン「法医学」(一八二頁)写

(61) 村上利「血圧と生活反応に関する研究」(日本法医学雑誌九巻三号二〇五、二〇六頁)写

(62) 赤石英編「臨床医のための法医学」(四二、四三頁)写

(63) 鈴木庸夫「損傷と組織内出血に関する研究」(法医学の実際と研究)写

(64) 上野正吉著「新法医学」(七九、八〇頁)写

(65) 四方一郎外一名編「現代の法医学」(三四、三五、四四頁)写

(66) 捜査関係事項照会書に対する内藤道興の昭和六〇年一〇月二二日付回答書謄本

(67) 牧角三郎作成の昭和六〇年一一月三〇日付意見補充書

(68) 赤石英編「臨床医のための法医学」(三四頁)写

(三) 職権分

(1) 昭和五九年三月二三日実施の鑑定人西丸與一の尋問調書

(2) 鑑定人西丸與一作成の昭和五九年八月六日付鑑定書

(3) 昭和五九年九月一〇日実施の証人西丸與一の尋問調書

(4) 西丸與一作成の昭和五九年一一月一三日付鑑定書補遺

(5) 昭和五九年一一月二〇日実施の証人西丸與一の尋問調書

(6) 昭和五九年一二月一七日実施の証人西丸與一の尋問調書

(四) 取寄せにかかる記録その他の証拠

(1) 確定判決の事件記録全七冊

(2) 第一次ないし第三次再審請求事件記録全四冊

(3) 押収してある薄桃色メリヤス裏ネル肌着シャツ一枚(原第一審裁判所昭和二九年領第一一二号(抗告審裁判所昭和五二年押第五七七号)の一)、木綿白子供用ズロース一枚(同二)、ネル子供用ズロース一枚(同三)、化繊緑色子供ワンピース一枚(同四)、桃色毛糸セーター一枚(同五)、赤色毛糸カーディガン一枚(同六)、白木綿ソックス一足(同七)、綿茶色靴下一足(同八)、大人用女物駒下駄一足(同九)、拳大変形三角型石一個(同一〇)、中古鼠色セルジャンバー一枚(同一一)、チャック付ジャンバー一枚(同一二)、浅黄色古ズボン一着(同一三)、昭和二九年三月一三日付赤堀政夫の司法警察員に対する供述調書一通(同一四)、昭和二九年三月一二日付岡本佐太郎の司法警察員に対する供述調書一通(同一五)、赤堀政夫の駿府病院の病床日誌一通(同一六)、被告人の置手紙一枚(同一七)、赤堀政夫から赤堀一雄宛の葉書一通(同一八)、書信表一綴(同一九)、接見表一綴(同二〇)、小山政治から小山完而宛の葉書一通(同二一の一)、小山政治から小山完而、同幸子宛の葉書各一通(同二一の二、三)、小山完而から小山政治宛の葉書一通(同二一の四)、小山政治から小山完而宛の葉書一通(同二一の五)、手術名簿一冊(同二二)、外科手術記事(静岡県農業会病院外科入院日誌)一冊(同二三)、診療録一枚(同二四)、失業保険日雇労働被保険者手帳一冊(同二五)、写真二枚(原第二審裁判所昭和三三年領第四四二号(抗告審裁判所昭和五二年押第五七七号)の二六)、足跡の石膏(明瞭のもの)一個(同二七)、足跡の石膏(踵のみ明瞭のもの)一個(同二八)、ノート(「過ぎし日の想い出の記」と題するもの)一冊(同二九)

(4) 原第一、二審不提出証拠

(ア) 捜査日誌抄本(「久子ちゃん強姦殺人事件日誌」と題する捜査日誌の表紙及び同日誌中の昭和二九年六月一日付日誌表欄)

(イ) 司法警察員飯田宙一作成の昭和二九年三月一四日付「足跡採取の状況について報告」と題する書面謄本

(ウ) 司法警察員飯田宙一作成の昭和二九年三月一五日付「足跡採取の状況について報告」と題する書面謄本

第四当裁判所の判断

一  犯行順序について

1  弁護人は、差戻前の原審において、北条春光作成の鑑定書(以下「北条鑑定書」という。)、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付鑑定書(以下「太田鑑定書(一)」という。)、同人作成の昭和四七年四月六日付鑑定書(以下「太田鑑定書(二)」という。)、上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付鑑定書(以下「上田鑑定書(一)」という。)を提出し、請求人は自白調書で犯行の順序として、まず被害者を姦淫し、次いで本件石でその左胸部を殴打し、最後に扼殺した旨供述しているが、右各鑑定書によると、頸部絞扼は生前であるが、陰部及び胸部の各損傷時期は頸部絞扼以後であり、そうとすれば、頸部絞扼が最初に行われ、その後に陰部に傷害を残したような暴行及び胸部に対する暴行が加えられたことになるから、これと異なった供述をしている自白調書の信用性はない旨主張し、差戻後の当審においても、更に、太田伸一郎作成の昭和六〇年五月一二日付意見書(以下「太田意見書」という。)、同人作成の昭和六〇年八月一〇日付意見補充書(以下「太田意見補充書(一)」という。)、同人作成の昭和六〇年九月二三日付意見補充書(二)(以下「太田意見補充書(二)」という。)、内藤道興作成の昭和六〇年八月二〇日付意見書(以下「内藤意見書」という。)、同人作成の昭和六〇年一〇月三〇日付補充意見書(以下「内藤意見補充書」という。)を提出し、同旨の主張をする。

2  弁護人が原審において提出した右1掲記の各鑑定書及び当審において提出した右1掲記の各意見書、各補充意見書(以上の各鑑定書、各意見書及び各補充意見書を、以下「犯行順序に関する新証拠」ともいう。)は、いずれも、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、いずれも新規性のある証拠ということができる。

3  ところで、犯行の順序についての確定判決の認定は、前記のとおり、「泣き叫ぶ同女の下半身を裸体にし、その上に乗りかかって姦淫し、その結果、同女に外陰部裂創等の傷害を負わせ」、次いで、「付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って、同女の胸部を数回強打したうえ」、更に、「両手で同女の頸部を強く絞めつけ、……窒息死させた」というもので、まず被害者を姦淫し、その後に本件石で胸部を殴打し、最後に扼殺した順になっている。そして、右のような認定の直接の証拠は、請求人の自白調書であり、そのうち犯行状況を詳細かつ具体的に供述しているのは、請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付供述調書と検察官に対する同年六月一三日付供述調書である。請求人は、右司法警察員に対する供述調書において、「私は、もうどうにも我慢が出来なくなり、其の子の正面から肩を押し山の高い方へ頭を向けて仰向けに倒しました。すると、女の子はびっくりして泣きべそをかきましたので、まづいなあと思いましたが、どうにもたまらなくなり、子供のズロースを下から手を入れて下に引下げました。子供は、おうちへ行きたい、かあちゃん、と言って泣き出しました。私は、自分のヅボンを下げ、右足はヅボンから抜いて、その子の上になり、女の子のズロースを片足抜いて股を開かせ、余り騒ぐので、左手で子供の口を押え乍ら、自分の大きくなった蔭部を女の子のおまんこにあて右手で持って押しあて腰を使ってグッと差入れました。半分位入ったと思います。女の子はもがき乍ら、痛い、おかあちゃん、と力一杯泣くので、左手では押え切れなくなり、私は構はず腰をつかいましたが、余り暴れるので思う様に出来ず、私は、やっきりして、おまんこをやめて、足の処にあった握り拳一つ半位の岩石の先のとがったのを拾い、腹立まぎれに、女の子の左胸辺を二、三回力一杯尖った方で殴って仕舞いました。」「子供は私が腹立ちの余り石で二、三回殴ると、相当ひどかったと見え、泣くのが止り、フーフーと息をし乍ら目をつむり唸っていました。私は気持が悪くなり、一そ殺して仕舞へと思ひ、両手を女の子の首にあて力一杯押へつけました。そして、四、五分して手を離すと、もうぐったりしていました。」と供述し、前記検察官に対する供述調書においては、石を拾って殴った状況につき、「女の子は両手を振ってもがき乍ら泣くので片手では押えきれなくなり、旨く目的が達せられそうもなく、癪に障り、女の子の上に乗りかゝった儘、自分の陰茎をぬき、右手で其の辺の地面を石でもないかと思って探して見ましたが、見當らず、足元の方を見ると、石の様な物が見えたので、のりかゝった儘の姿勢で右足を伸し、足のこうや指先を使って其の石を手元にひき寄せ、握り拳より少し大きい位の其の石を右手に握り、尖ったところで女の子の胸を数回力一杯殴り付けたのであります。」とやや詳細に供述しているほかは、前記司法警察員に対する供述調書と同旨である。

原第一審は、請求人の右のような内容の自白調書を本件犯行の順序を認定する証拠としたが、他方、鈴木鑑定書によると、被害者の解剖時における頸部、胸部、陰部の各損傷の状態、死因等は、次のとおりである。すなわち、

(一) 頸部において、甲状軟骨の上方約二・五センチメートルの正中よりやや右上方に向かい二・三×〇・七センチメートルの部分が褐色の革皮様化を示すが、表皮剥脱は認められない。前傷の右端の部分には長さ〇・三ないし〇・六センチメートルのわずかに孤状を呈した淡赤色の軽い表皮剥脱を四個認め、配列は不規則である。甲状軟骨の上方約一・八センチメートルの略々中央部に横走する長さ一センチメートル、幅一ミリメートルの濃赤色の表皮剥脱を認めるが革皮様化は認められない。前創と甲状軟骨との中間部は全般的にやや赤味を呈している。頸部の皮膚を剥離すると、前頸部の革皮様化の皮下には極めて軽度な出血を認めるが、筋肉内には出血を認めない。喉頭、気管、食道粘膜に異常なく、喉頭の諸軟骨に骨折は認められない。気管内には少量の気泡を含む血液少量を認める。前頸部の傷は、皮下に出血を認めることから生前のものと判定され、右前頸部の短い線状の表皮剥脱は爪の痕跡と思われ、扼殺の際に生じたものと思われる。

(二) 胸部において、左乳嘴の下方に〇・七及び一・〇センチメートルの類四角形の褐色の革皮様化を二個上下に並んで認められる。表皮剥脱を伴い、方向は左方に向かう。下方のものの内側にほとんど接続して、横に二・〇×〇・七センチメートル大の同様な革皮様化及び表皮剥脱を認めるが、腫脹及び出血は認めず、骨折は触知されない。前傷の周囲には半ごま粒大の表皮剥脱を認める。胸壁の皮膚筋肉を剥離すると、左乳嘴下方の革皮様化の内部は、表皮と脂肪層を残すのみで、筋肉は挫滅し、第四肋間で胸骨左縁より三・五センチメートルの部分から第四肋間に沿い左上方に約四センチメートルの範囲で肋間筋が消失し、肋膜腔に穿孔しているが、筋肉内には凝血は認められない。創縁は凹凸不整で創底には肺を認める。左右両肺は淡い桃色で後壁に近いほど紫色となり、濃色となる。左肋膜腔内には淡赤色ほぼ透明な液体少量を認める。左右とも肺肋膜下に針頭大の溢血点を多数認める。左肺上葉の前下縁より約三センチメートルの部分が小指頭大に濃赤紫色を呈し、下葉の後下縁の部分は拇指頭大濃赤紫色を呈し、膨大している。膨大せる部分を切開すると、内部に出血を認めるが、凝血は認められない。肺の割面はやや濃色で、含気量普通で血量やや多い。胸部の肋骨内面に異常なく、肋骨に骨折はない。左胸部の損傷には出血等の生活反応が全く認められないことから、死後のものと考えられる。

(三) 外陰部は開し、会陰部より肛門周囲に乾血とともに出血を認める。陰部は高度な裂創を認め、膣前庭、小陰唇は形がなく、大陰唇の大部分も表皮がなく、皮下組織が露出している。肛門に約〇・五センチメートルの部分まで裂創を認める。膣孔周囲においては上下に約四センチメートル、左右に約三センチメートルの卵形に皮下組織が露出し、右大陰唇においては、露出する皮下組織面に約一センチメートルの筋肉内に達する外部より内部に向かう創を認める。後膣壁も裂創を認め、正常な膣粘膜がなく筋肉が露出する。膣内には血液の少量を認めるのみで膣粘膜は後壁において膣穹隆部まで完全に裂創を認める。膣壁より左ドーグラス氏窩に向かい裂創を認めるが腹腔内には達していない。膣穹隆部の裂創内には凝血を含んでいる。外陰部の裂創は出血が認められるが、周囲の生活反応がほとんどなく、付近に外傷が認められないことから、本創が生じた際に、被害者の抵抗はほとんどなかったと推定される。本裂創からの出血は放置すれば相当量あるものと考えられるが、致命的な大出血をきたすことはまれであると思われる。

(四) 死因としては、全身症状としてやや蒼白で貧血症状が認められるが、血液の暗赤色流動性、溢血点等から窒息死が最も妥当と思われる。血液に少量の凝血があるが、これは窒息してから死亡するまでに、ある程度時間が経過したものと推定される。外陰部の裂創からも出血はしたが、致命的大出血とは思われない。

鈴木鑑定書は、以上のように、被害者の死体を解剖した所見を説明している。これによると、被害者の死因は扼頸による窒息死であり、胸部損傷の時期は、出血等の生活反応が全く認められないことから、死後、すなわち、扼殺以後であるとしている。そして、証人鈴木完夫は、原第一審公判廷(第三回)において、

「弁護人

生活反応があるなしということで生前の傷か死後の傷かを断定するのは法医学上の常識だろうと思うが、死亡直前に受けた傷或いは直後に受けた傷かということも、やはり生活反応の有無で断定できる訳か 瀕死の状態の時には生活反応があっても非常に弱いのです。だから、その境の場合には断定が難しいのです。つまり、血液が出るだけの余裕がなかったとか、血液の循環が弱っているとか、全く危篤の状況の時に受けた傷は、生活反応が極めて弱い訳です。だから間違って鑑定をする可能性もある訳です。」

と補足説明し、疑問を残しながらも胸部損傷は死後に生じたものであると考えた旨供述している。そうすると、損傷時期に関する鈴木鑑定書の内容は、被害者の胸部を殴打した後に扼頸したとする請求人の自白と符合しないこととなる。

原第一審裁判所は、弁論終結後、職権で弁論を再開し、鑑定人古畑種基に対し、「(1)被害者の受傷の経過、(2)胸部の傷は本件石で殴打してできるか、もしできるとすれば、その際の被害者の状態、打撃の強さ」を鑑定事項として鑑定を命じ、第二一回公判において、同鑑定人作成の鑑定書(以下「古畑鑑定書」という。)に基き、同人を証人として尋問しているが、右古畑鑑定書には、次のような趣旨の記載がある。

大体において鈴木鑑定は正しいと思うが、胸部の損傷を死後のものと判定していることは正しくないと思う。私の考えでは、胸部の損傷は鈍体の作用によるもので、おそらく生前の受傷であると思う。一般に、創傷の生前、死後の判定を下すにあたって、生活反応の有無によることは常識であるが、本件の被害者のような幼少のものは、まだ血管の発達が十分でなく、毛細血管における血圧が成人のように大きくないために、生前に受けた損傷であるにもかかわらず、皮下出血がほとんど認められないことがある。本件において、皮下出血が欠けていたので、死後のものと判定したことは、一般成人の場合には適当するのであるが、幼児においては皮下出血を伴わない生前の損傷のあることは忘れてはならぬ。被害者左胸部の褐色の革皮様化した表皮剥脱は、おそらく皮内にかすかな出血を伴っていることと思われる。死後の損傷の場合は、全く蒼白であって、褐色を呈していないのが普通である。それゆえ、胸部の損傷には、僅微な皮膚組織内の出血があったものと私は考える。又、肺臓の所見において、左肺上葉の前下縁より約三センチメートルの部分が小指頭大に濃赤紫色を呈し、下葉の後下縁の部分は拇指頭大濃赤紫色を呈し、膨大している部分があるのは、明らかに生前の外力の影響を思わせるものである。現に、膨大している部分を切開すると内部に出血が認められると記載されていることは、よくこれを証明している。私は、この左肺における変色は、鈍体によって胸部に加えられた打撃と一連の関係があるものではないかと想像している。被害者の受傷の経過を正確にいうことはむつかしいが、おそらく、まず押し倒されて姦淫され、その際、手指又は陰茎によって外陰部に裂創等を生じ、胸部を鈍体をもって殴打され、次に、頸部を手をもって絞扼されて死亡するに至ったものと推定する。胸部の損傷は本件石によってでき、被害者がまだ生存中に生じたものであり、その打撃は相当に強かったものと判定する。

古畑鑑定人は、以上のとおり鑑定したうえ、原第一審公判で供述し(以下、「古畑証言」という。)、これを補足説明しているが、これらによると、被害者の胸部損傷は頸部絞扼以前に本件石によって生じたというのであるから、この点に関する請求人の自白と鈴木鑑定との齟齬はなくなったことになる。右のような経過で、原第一審裁判所は、古畑鑑定によって、犯行順序に関する請求人の自白調書の任意性、信用性を裏付け、これに基いて、確定判決のとおり犯行順序を認定したものといえる。

4  そこで、次に、犯行順序に関する新証拠についてみる。

(一) 北条鑑定書

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

生前強姦されたものとは思われない。屍姦に類する犯行らしい。左胸部の褐色の革皮様化したという部分の傷は、その皮下筋肉及び更にその内部を調べた鈴木鑑定書を基礎にして判断すると、普通にいう生前の外傷と判断しにくいと考えられる。すなわち、呼吸も停止し、心臓も止まり、仮死の時期とみられるころから後の時期に生じたと考えるのが一般的であると思う。

(二) 太田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

(1) 外陰部に相当大きな裂創が存在しているのに、生活反応らしい出血部分が、創の大きさに比して非常に少ないということは、その創の生じた時期が、生活力の極度に低下したようなとき以降に生じたものと考えられる。鈴木鑑定書によると、膣穹隆部の裂創内には凝血を含む、とあるが、膣裂創といえば、膣の重層扁平上皮と内輪、外縦二層の平滑筋が裂創をうけていることになり、この裂創内の凝血が、裂創の組織間に存在する凝血であるならば生活反応といえる。しかし、窒息死及び凍死の死体の血液は、死後しばらくの間、もろい線維素を析出して凝固する能力を保存しているので、鈴木鑑定書の記載だけからは、生活反応が陽性であるのか、陰性であるのか、鑑別することはできかねる。鈴木鑑定書によると、前頸部に皮下出血を伴っている表皮剥脱があるので、明白に生前のものである。そして、その周囲に爪痕と思われる表皮剥脱もあり、かつ窒息死所見も具有しているので、絞扼による窒息死と判断して間違いないと思う。生活反応(組織間出血)の程度から、外陰部の損傷は、少なくとも、絞扼より前に生じたものとは考えられ難く、絞扼とほとんど同じころか、むしろそれより後に生じたものと思考される。

(2) 古畑鑑定書によると、左胸部の革皮様化の表皮剥脱は生前のものと解釈しているが、私はそうは思わない。革皮様化という現象は、皮膚に鈍体が作用して表皮の剥脱が起こり、真皮が露出すると、死体ではその部分より水分が蒸発して乾燥して硬くなり、羊皮紙状に革皮様化する。そして、時間が経つにつれて、たとえ死後に生じた表皮剥脱でも褐色調を増してくるもので、その表皮剥脱が生前に生じたかどうかは、皮中出血を認め得れば生前のもの、認め得なければ生前のものとは判定しないものである。又、古畑鑑定人のいう、六歳位の子供は血管の発育が不十分であるために成人よりは生前の創であるのに皮下出血が認められ難い、という点に関しても、私の考え方とは相違している。皮膚毛細血管は、皮膚乳頭層ができたときは当然できており、六歳ともなると成人と同程度に完成されているといっても過言ではない。以上のことで自明のことと思うが、六歳位の子供ゆえに生活反応が出現し難いというのは、科学的根拠が乏しいと思考する。又、左肺上葉の前下縁より約三センチのところに小指頭大の濃赤紫色を呈している部分があるが、これは、第四肋間の肋間筋挫滅部分におおよそ相当するものであろうと考えても大きな誤りはないように思われる。しかし、鈴木鑑定書によると、割検して組織間の出血をしらべられた記載はなく、かつ、組織学的検索もなされていないので、外傷性のものか非外傷性のものかの判断は困難である。もし、外傷性の生活反応であると仮定しても、左前胸部の皮膚、筋肉の生活反応が全く欠如していて、それらの創底であるこの部分にのみ生活反応が現れるという現象は、法医学的に理解できかねる。左肺下葉の後下縁の拇指頭大に濃赤紫色を呈し膨大している部分は前記一連と思われる創とは部位的に合致しないし、その膨大部の体表等に損傷異常が認められないので、これが生前の肺損傷であるという証拠は薄弱であるといわざるを得ない。以上私の考えを要約すると、左胸部の創傷は、絞扼よりは後に行われたものと推量する。

太田伸一郎は、右のように鑑定し、更に、原審において、証人兼鑑定人として、(1)膣穹隆部裂創内にあった凝血は、生活反応としての凝血ではなく、血液が半分固まったような状態の凝固を凝血と見誤まったのではないかと思う、(2)犯行の順序については、首が最初であり、外陰部と胸部の各損傷は順序をつけにくいが、強いてつければ、膣穹隆部の凝血が組織間の凝血であると考えてみると、外陰部の方が先ではないかと思う、旨それぞれ供述し(以下、太田伸一郎の原審における供述を「太田証言」という。)、太田意見書においては、(1)膣穹隆部の凝血は、外陰部の創が洞状を呈しているので、血液が乾いて固まる途中段階にある状態、すなわち半乾状血液であったであろうと思われる、(2)胸部損傷は、死後或いは死戦期(生死の境界期)に生じたものと判断される、と述べている。

(三) 上田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

(1) 外陰部の裂創には出血を認めるが組織内出血がない以上、例え乾血や流動血があったところで、これは死後の血液の就下現象(血液が重力の法則に従って下にさがる。)と考えられて当然である。又、膣内粘膜面においても裂傷があるが、生前の損傷であるとすればもっと組織内出血が認められてもよいはずである。しかし、鈴木鑑定書には組織内出血があったという記載はない。更に、小陰唇から大陰唇までも表層皮膚が欠損しているという記載があるのに組織内出血を認めるという記載がない。ただ、膣穹隆部にわずかに「凝血を認める」という記載があるに過ぎないが、これは、骨盤腔内のダグラス窩では腹壁腹膜側に何らの組織内変化も認めていないので、おそらくは、膣穹隆部に小さい凝血が見られた程度ではないかと考える。又、右の凝血については、太田鑑定書と同様に、窒息死、凍死の死体の血液は死後しばらくの間もろい線維素を析出して局所で組織内部で凝血を作り得ることも考えられるので、膣穹隆部の凝血をこのようにしてできたと解釈することも可能である。以上要するに、陰部の傷は死戦期又はそれ以後の傷で、死後血液就下のために膣や外陰部から血液が流出したものである。

(2) 左胸部の損傷については、六歳児では既に毛細血管も十分大人と同様発達しており、血圧も成人とあまり大差がないため、筋内出血がないのは死後の傷と考えるべきだとする太田鑑定書(一)の意見に同意する。古畑鑑定書によると、左肺実質部の損傷は左胸部の革皮様化している部分と同時にできたものと想像しているが、この肺出血が外力性に生じたものとのみ断定すべき理由はなく、死戦期にできた血液吸引巣と考えた方が自然であると思われる。右の肺出血巣と左胸部損傷とに必ずしも同一時期にできたものとは考えず、左胸部損傷を死戦期かそれ以後のある時期に外傷性に別に加えられた打撲によって生じたものと解釈する。

上田政雄は、右のように鑑定し、更に、原審において、鑑定人兼証人として供述し、犯行の順序につき、(1)一番最初に首を絞めたことは明らかである。(2)陰部、胸部の各損傷の先後は不明である、旨それぞれ供述している(以下、上田政雄の原審における供述を「上田証言」という。)。

(四) 内藤意見書

同意見書の要旨は、次のとおりである。

(1) 陰部損傷は、その外陰部において動物による死後損壊の加えられた公算が大きいために明言し得ないが、膣穹隆部裂創内に凝血があり、これは出血した血液に凝固機能があったことを示しているとみてよく、一応生活反応とみるのが妥当であるから、死亡に近接した時期ないしは死戦期に生じたものと推測するのがよいように思われ、左胸部損傷よりは先行するとみるべきである。

(2) 左胸部損傷は、生活反応が全くなかったものと理解すべきで、死後に生じたと解され、少なくとも生前に生じたとすべき証拠は存在しない。古畑鑑定書のように、革皮様化の色調によって生前死後の判定を下すことは、全く不可能ではないが、法医学書によると必ず加割(割検)し皮内皮下の出血の有無を確めなければならないとされており、鈴木鑑定書ではその点の記載がないわけであって、色調だけで判定するのは妥当でない。左肺上下葉の膨大部は、窒息に際して生ずることのある肺気腫で、部分的に強く膨隆したために肺胞壁が破綻して出血したものである。したがって、この肺の膨大出血部は左胸部に加えられた鈍体作用に基く損傷とは全く無関係と解される。

(3) 頸部損傷については、革皮様化部に相当する皮下組織内に軽度であるにしても出血が存在したとすれば、生前加えられた外力に基く創傷であるとみなければならない。

内藤道興は、以上のように鑑定し、内藤意見補充書において、頸部損傷と陰部損傷の先後関係については、陰部損傷は死後動物損壊の加えられた公算が大きく失った部分が不明であるから、明言できない、と述べている。

5  よって、これら犯行順序に関する新証拠(各証言を含む。)と旧証拠を、原審及び当審で取り調べられた犯行順序に関する各証拠をも含めて比較検討し、犯行の順序を考察することとする。

(一) 死因について

鈴木鑑定書及び原審における鈴木完夫の証人兼鑑定人としての供述(以下「鈴木証言(一)」という。)によれば、被害者の前頸部の革皮様化の皮下に軽度であるとしても出血が認められたのであるから、右損傷は生前加えられたものであること、血液が暗赤色流動性で溢血点が存在する等窒息死所見を具有していることからすると、被害者の死因は扼頸による窒息死と認められ、更に心臓周囲の大血管内にある暗赤色流動性の血液の中に極めて少量の凝血が含まれていた点を考慮すると、窒息してから死亡するまでにある程度時間が経過した遷延性窒息死と認めるのが相当である。

この点に関して、当審において検察官から提出された牧角三郎作成の意見書(以下「牧角意見書」という。)及び意見補充書(以下、「牧角意見補充書」という。)によると、被害者は、遷延性窒息死ではなく急性窒息死である可能性があるとし、急性窒息死の場合でも、流動性血液の中に少量の軟凝血が混じっていることが稀ではなく、自らの解剖検査例をみても、急性窒息死例の大部分において心臓や大血管内の血液は暗赤色流動性であったが、一七八例中一三例に軟凝血の混在を認めた、と述べている。しかしながら、右の検査例においてもわかるとおり、急性窒息死の場合に軟凝血が混在するのは一割にも満たない例外的場合であって、本件の場合も、急性窒息死の可能性を全く否定し去ることはできないが、軟凝血の混在によって、遷延性窒息死である可能性の方が絶対的にも高く、かつ、これを否定するに足りる特段の所見も認められないのであるから、前記のとおり認定するのが相当である(牧角三郎も、本件被害者が急性窒息死であるとまではいっていない。)。又、牧角意見書によると、同じく右の点に関して、流動血の中に軟凝血ではなく豚脂様凝塊が見い出された場合には急性死ではなく遷延性の窒息死ではなかろうかと推測できるが、本件被害者においては鈴木鑑定書によれば豚脂様凝塊が見い出されていないから遷延性窒息死と推測すべきではないかのごとく述べているが、太田意見補充書(二)によると、遷延性窒息では豚脂様凝塊が心内血に混じっているのはよくみられる現象であるが、豚脂様凝塊でなくて軟凝血である場合もあることが認められるので、このことのゆえに、前記認定が左右されるものではない。

(二) 陰部損傷の時期について

犯行順序に関する新証拠によると、陰部損傷時期について、北条鑑定書は、格別の理由を示すことなく、生前強姦されたものとは思われないとし、太田鑑定書(一)は、外陰部には相当大きな裂創があるのに、創の大きさに比して生活反応(組織間出血)が非常に少ないから、外陰部の損傷時期は、生活力の極度に低下したようなとき、すなわち、絞扼とほとんど同じころか、むしろそれ以後であるとし、上田鑑定書(一)は、外陰部及び膣内の各損傷とも組織内(間)出血が認められないから、その損傷時期は死戦期又はそれ以後でかつ扼頸以後であるとし、更に、内藤意見書は、膣穹隆部裂創内の凝血を一応生活反応とみて、陰部損傷時期を死亡に近接した時期ないしは死戦期であるとし、頸部損傷との先後は明言できない、としている。

一方、旧証拠である古畑鑑定書は、被害者受傷の経過として、まず陰部損傷があり、次に胸部損傷があって、最後に頸部絞扼で死亡したと推定しているが、特にその根拠を示していないし、同じく旧証拠である鈴木鑑定書は、被害者の外陰部の裂創には出血があるが、周囲の生活反応がほとんどなく付近に外傷が認められないことから、本創が生じた際に被害者の抵抗はほとんどなかったと推定される、とするだけで、陰部損傷の時期については明言していない。

このような証拠関係のもとで、原審及び当審において、次のような証拠の取調べがなされた。すなわち、

(1) 鈴木証言(一)によると、(ア)外陰部の裂創から出血があった(会陰部から肛門周囲に血が流れて付着しているのは出血のあったためである。)ことと膣穹隆部に凝血が存することは、いずれも生活反応であって、陰部損傷は生前である、(イ)陰部損傷と頸部絞扼との先後については、窒息症状を起こせば血液は凝固能力をなくすから、膣穹隆部に凝血があったということは、窒息症状の起こる前にこれが出血したことになり、頸部絞扼より前に陰部損傷が生じた、と供述している。

(2) 更に、当審において検察官から提出された鈴木完夫の検察官に対する昭和五九年三月二九日付供述調書謄本(以下「鈴木検調(一)」という。)、同人の当審における証人としての供述(以下「鈴木証言(二)」という。)によると、(ア)(a)本件被害者の場合、喉頭粘膜に溢血点がなく、革皮様化の皮下にも極めて軽度な出血があるだけで筋肉内に出血がないが、これは、頸部絞扼の際に被害者が出血しにくい状態、つまり、陰部損傷による大量の出血があったため貧血状態にあったからである、(b)現に、本件死体の死斑は淡く狭い範囲にしか認められず、顔面蒼白で全身の皮膚も蒼白であるから、死体が強い貧血状態となっていたといえる。(c)これらから考えると、被害者は、死亡前に、又、頸部絞扼前にかなりの出血をしていたと考えられ、その原因としては、陰部損傷しか考えられない、(イ)死後の陰部損傷行為によってその部位から血液が就下し、そのための出血によって死体が貧血状態になることは考えられない、(ウ)膣穹隆部の裂創内に凝血があったことは、生活反応陽性との判断をするのが妥当である、(エ)本件被害者の陰部損傷は、裂創や表皮剥脱であるから、生前に受けた傷であっても、その性状からして組織間出血がみられなくても不思議ではない、けだし、裂創の断面から出血しても血が外部へ出てしまって組織間出血にならないし膣孔周辺の表皮のめくれた傷についても、巻き込まれて生じた場合に組織内出血を起こす必然性はない、(オ)陰部の周囲や大腿部等に抵抗による傷がほとんどみられなかったのは、犯人と被害者との間に体力差がありすぎて、パンツなどの着衣を暴力的に脱がせる必要がなかったためである、姦淫中にもがいて受傷する可能性が高いのは尻や足であるが、足には長い靴下をつけていて受傷することはなく、尻の部分には地面の状況にもよるがスカートを敷くかたちになるため、これまた受傷しにくかったと思われる。(カ)被害者のワンピースには脱糞が付着しており、ズロースにはこれが認められないが、脱糞は扼頸による窒息死のけいれん期の症状として起こることから、扼頸時には既にズロースが脱がされていたことになる、として、陰部損傷が、生前でかつ扼頸前に加えられたと供述している。

(3) 原審において検察官から提出された井上剛作成の鑑定書(以下「井上鑑定書」という。)によると、傷が裂傷又は裂創である場合は、創口から外へは大量の出血があるが、たとえ、それが明らかな生前の裂傷又は裂創であっても、その周囲の組織には挫滅がほとんど起こっていないから、組織内溢血を生ずることはまれで、これを目安として受傷時期を論ずることはできない、そこで、この種の傷の場合は、体外(外部)への出血量を目安として、それが大量であるときは生前に生じたもの、逆に、ほとんどないか乏しいときは一応死後の損傷であろうと考える、本件の裂傷は、かなり太い動静脈血管が特に多数ある所の会陰部に惹起されているから、この陰部裂傷が生前の損傷であるとすれば、特に大量の出血が起こっていなければならないのに、現場においても、死体の着衣等にも、非常に大きな出血があったことを物語る証跡がない、したがって、陰部の裂傷は、生前のものとは考えられないが、本件裂創内には凝血を含んでいるから、陰部の裂傷は、死戦期又は死の直後に惹起されたもので、明らかに頸部絞扼後のものである、としている。

(4) 当審において検察官から提出された牧角三郎作成の鑑定書(以下「牧角鑑定書」という。)、同人の当審における証人としての供述(以下「牧角証言」という。)によると、(ア)陰部損傷は、生前で頸部扼圧より前に受傷したものと考えられる、(イ)組織間出血がみられないときでも、生前の損傷ではないといいきれない、(ウ)膣穹隆部の凝血は、生前の損傷を示唆する有力な所見である、(エ)太田、上田各鑑定書によると、窒息死、凍死の死体の血液は死後しばらくの間もろい線維素を析出して凝固する能力を有しているから凝血があったからといって生前とはいえない、としているが、本件の死体は、「死後しばらくの間」ではなく、既に三昼夜を経過したものである、窒息死体の血液は、死後しばらくは軟凝固するが、しばらくそのままにしておくと再び流動性を帯びてくるのであって、三昼夜もたてば、一たん凝固した血液も流動性を帯びてくる、逆にいえば、窒息死体の場合には、三昼夜たった死体に凝血があれば生前の出血である、(オ)検証調書によると、陰部からの大量出血が認められており、生前に大量の出血が起こるためには、心臓の鼓動があるうちでなければならない、したがって扼頸による窒息死亡のあとではそのような大量出血があることは考えられず、扼頸より前に陰部損傷が発生した、としている。

以上のとおり、陰部損傷の時期を、生前でかつ頸部絞扼以前とするのは、古畑鑑定書(特にその理由を示していない。)、鈴木証言(一)、(二)、鈴木検調(一)、牧角鑑定書、牧角証言である。

その理由をまとめると、

(1) 膣穹隆部の裂創内に認められた凝血が生活反応であること、

(2) 死体が貧血状態にあり、その原因は生前の陰部損傷による大量出血に基くものであること、

(3) 前頸部損傷と陰部損傷の生活反応を対比すると、後者が前者より時間的に先行すること、

(4) 扼頸時のものと推定される脱糞の付着状況等から生前強姦されたことを裏付けていること、

の四点を積極的な根拠としており、

(5) 陰部損傷に明らかな組織間出血が認められなかったことは、生前の損傷と判定することと矛盾するものではないこと、

(6) 死体の腰部、大腿部等に擦過傷等外傷が存在しないことから、本件を屍姦とみることにはならないこと、

の二点を、陰部損傷が死戦期以後であるとする見解を否定する根拠としている。

以下、これら(1)ないし(6)の各点について順次考察する。

(1)について

鈴木証言(二)、当審において検察官から提出された鈴木完夫の検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付供述調書謄本(以下「鈴木検調(二)」という。)によると、膣穹隆部の凝血は、裂創にくっついていたのではなく膣孔の中に位置していたもので、大きさは半小指頭大であったことが認められる。太田証言、太田意見書においては、鈴木鑑定書にいう膣穹隆部の凝血は、半乾状血液を凝血と見誤まったのではないかと述べているが、鈴木証言(二)、鈴木意見書によると、同人が被害者を解剖した際は、腹の方から膣の一番奥を切開して凝血を確認していること、凝血は線維素の作用等により全体が柔軟なゼリー状を呈してほぼ均等であるのに対して、半乾状の血液は表面から乾燥していき表面と中心部で乾燥の程度に差ができ硬さにも差が認められ、そもそも凝血と乾燥血とは成因から異なり、区別は比較的簡単であること、しかも、本件死体は、凝血のあった膣穹隆部までは膣孔の開が及んでおらず乾燥する理由は認められないことからすると、同人が、半乾状血液を凝血と見誤まったというようなことはなく、前記認定のような凝血を膣穹隆部に認めたものということができる。

ところで、太田鑑定書(一)及び上田鑑定書(一)によると、窒息死や凍死の死体の血液は、死後しばらくの間もろい線維素を析出し、局所で組織内部に凝血を作り得ることも考えられるから、膣穹隆部の凝血の成因をこのように解釈することも可能であるとすると、凝血の存在をもって生活反応陽性とすることはできないとしているが、本件被害者の場合は、鈴木鑑定書によって認められるとおり、死後三昼夜くらい経過(この点は後にも検討する。)しているところ、牧角鑑定書、牧角証言、当審において検察官から提出された佐藤武雄外二名の「急激死亡人屍流動性血液に関する研究」写によれば、窒息死等の急激死亡人屍血の流動性獲得は、死亡直後、比較的短時間(大多数においては死後二時間半ないし三時間半)で起こるが、そこに至る過程は、屍血が体内にそのままあっても、かつ又屍血を体外に採取したものであるとを問わず、多少の程度の差はあるが、常に外見上、一たん凝血が起こり、その凝血が再び溶解して真性流動血となるものであって、本件被害者のように死後三昼夜も経過した窒息死体の場合は、一たん凝固した血液も流動性を帯びてくるのであり、したがって、太田、上田各鑑定書の見解で膣穹隆部の凝血の成因を解釈することはできないものというべきである。

しかしながら、次のような考え方でなら右凝血の成因を説明することは可能と思われる。すなわち、前記認定のとおり、被害者の死因は遷延性窒息であるが、太田意見補充書(一)、(二)によると、遷延性窒息死の場合は、心臓内血液は流動性ではなくて凝血を混ずるのが普通であり、心臓以外の血管内の血液も同様に考えることができるし、当審において弁護人から提出された四方一郎外一名編の「現代の法医学」(八九、九〇頁)によれば、遷延性窒息死の一剖検例として、心臓並びに大血管内血液は完全に凝固し、末梢血管内にも多量の凝血が存在している、という事例も紹介されている。このようなことからすると、本件被害者の膣穹隆部裂創の凝血も、遷延性窒息死体の血液に含まれる凝血に由来するものと考えることも可能である。

そうとすれば、膣穹隆部裂創内の凝血の存在は、生活反応の根拠には、必ずしもならない。

(2)について

鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)は、被害者の死体が貧血状態にあったことからその原因を陰部からの大量出血に求め、そのような大量出血は生前の陰部損傷によるものであるとしている。

鈴木鑑定書によると、「全身症状として稍々蒼白で貧血症状が認められる」との記載はあるが、この部分は、結論的には、「死因としては……窒息死が最も妥当と思われる。」という中の記載であって、貧血症状の点に重点を置いた取りあげ方ではない。しかも、「外陰部の裂創よりも出血はしたが致命的な大出血とは思われない。」との記載や、「本裂創よりの出血は放置すれば相当量有るものと考えられるが致命的なる大出血を来すことは稀であると思われる。」との記載からすれば、鈴木完夫自身、右解剖時においては、陰部損傷からの出血が、重大な全身性貧血をもたらしたとまで考えてはいなかったことが窺われる。又、太田意見書によると、鈴木鑑定書の内部検査の項には、「心臓を摘出するに心臓周囲の大血管より……暗赤色流動性の血液多量に流出す。」、「肺の割面は稍々濃色で……血量稍々多い。」、「肝臓は……血量多い。」、「脾臓は……僅かに血量多い。」と記載があって、各臓器とも程度の差はあるが、いずれも血量が多いことから、生活反応が出現しない程度の貧血状態があったということには疑問があるとしている。この点に関して、鈴木意見書は、臓器の血量については、窒息死の場合は普通死より血量が多く、特に、肺、肝等には著明であって、本件においては、臓器の血量がやや多い程度であったから、窒息死体としては血量が少ないと判断し貧血所見とした、として、太田意見書に反論しているが、そもそも、鈴木鑑定書には臓器の血量と貧血症状の関係については何ら触れられていないし、鑑定書中の「血量……多い」との記載の意味を、窒息死体という条件を加えることによって、逆に、窒息死体としては血量が「少ない」と判断できるものかどうか、はなはだ疑問といわなければならない。以上のことからすると、被害者の死体には、陰部からの大量出血を推認させるほど高度の貧血症状はなかったと認めるのが相当である。

又、陰部損傷部からの出血量について、牧角鑑定書及び牧角証言は、原第一審で取り調べられた司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書に、「半開せる腰部中、露出せる外陰部は開口され、幼児の手大の穴となり、陰部より血液が大量に流出してあるを認めた。更に死体位置の地表を検すれば其の跡は湿潤を見、……堆積腐蝕せる落ち葉に附着する流出した血液を発見した。」と記載されている点をとらえて、陰部からの大量出血が認められる、としているが、右の「陰部より血液が大量に流出してあるを認めた。」の意味があいまいであって、鈴木鑑定書に記載してある「外陰部は開し会陰部より肛門周囲に乾血と共に出血を認める。」の部分、すなわち陰部の損傷部位及び肛門周囲等陰部付近の出血状況を見て、「血液が大量に流出してあるを認めた。」としたのか、死体位置の地表に堆積している落ち葉に付着した血液の量を見ての判断なのか、明らかでない。前者であるとすれば、出血状況、その程度の記載がないし、後者とすれば、付着状況、その範囲、流出血液が落ち葉の下の土にまで達していたかどうか等の記載がなく、いずれにしても、前記の検証調書の記載から、陰部損傷によって大量の出血があったとまでいえるかどうか疑問であるし、鈴木鑑定書によっても、「外陰部の裂創よりも出血はしたが致命的大出血とは思われない。」としている。

そして、前掲証拠により陰部の損傷部位から出血があってこれが地表に堆積している落ち葉の上に流出したことは認められるが、この点は、前記検証調書によって認められるとおり、犯行現場が三五度の斜面で被害者の頭が高い方にあったことに加え、上田鑑定書(一)及び上田証言は、窒息死の場合には血液が流動性であって、血液就下の現象が非常によく起こるから、外陰部からの流血は生活反応ではなく、このような死後の血液就下によるものと判断しているのであって、陰部の損傷部位からの出血を、このようにして説明することが不合理であるとする根拠も認められないから、右説明も可能というべきである。

以上のとおり、死体が強い貧血状態にあって、その原因が生前の陰部損傷による大量出血に基くとするのは相当でない。

(3)について

鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)は、被害者の前頸部の生活反応が弱いのは、先に陰部損傷を受けて大量出血し、強い貧血状態となっていたからであるとしているが、前記(2)において述べたとおり、被害者の死体が、陰部からの大量出血を推認させるほど高度の貧血状態にはなかったと認められるのであるから、右の見解は前提を欠くことになって、失当であるし、前頸部の生活反応がそれほど強く出ていないことについては、太田意見書がいうように、前記認定のとおり被害者の死因が遷延性窒息死であることから頸部圧迫の力が急激なものではなかったことによる、と説明することも可能である。

(4)について

鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、ワンピースに脱糞が付着し、脱がされていたズロースにはこれが付着していなかったことから、頸部扼圧前に陰部損傷、すなわち、強姦行為があったとしているが、右の脱糞付着状況からいえるのは、扼頸時にはズロースを脱がされていたという程度に止まり、それ以上に、扼頸と陰部損傷の先後まで推認させる事情になるものではない。

(5)について

まず、鈴木検調(一)、鈴木証言(二)、井上鑑定書等は、裂創や表皮剥脱の場合は生前の損傷でも傷の性状から組織間出血にならないとしているが、太田意見書は、このような見解を理解し難いとし、上田証言は、生前に膣裂創ができたとすれば、血管断端から外へ出る血液もあるが、周囲の組織へしみ込む血液が必ずあるはずであるし、表皮剥脱の場合は、皮下組織の中に出血が起こりにくいものの少しは必ずあるとしており、右見解に照らすと、鈴木検調(一)等の見解は採用し難い。

次に牧角鑑定書、牧角証言等は、生前の損傷であっても組織間出血を生じない場合があるとし、当審において検察官は、これを立証するため、邦文欧文の法医学関係の各種文献(抜すいの写)を提出したが、そこで論述されているのは、何らかの原因による血圧の低下、動脈の退縮、巻込み、轢断など血液循環の瞬間的停止、死戦期の場合等の特殊な場合であって、本件にあてはめて論じるのは相当でないというべきである。

更に、鈴木証言(二)によると、組織間出血の最も生じやすい恥骨縫合部の裏側に切開を加える等の方法で検査していないため組織間出血がなかったといえないとしているが、この点は鈴木鑑定書に何の記載もないから、右の部分に組織間出血があったともなかったともいえないのであって、証拠評価上の意味は乏しいものという外はない。

その他、被害者の受傷後遺体が降雨に遭ったり、動物による咬傷を受けた可能性も存し、陰部損傷に組織間出血等の生活反応が生じたとしてもその痕跡が失われた可能性があるとの見解もあるが、太田証言及び太田意見書中に引用添付されている生活反応に関する法医学書(抜すいの写)によると、生活反応としての凝血や組織間出血は、切開して流水で洗ったりガーゼで拭いたぐらいで取れるものではなく、又雨ぐらいで消失したりするものでもないし、動物の咬傷の点については、牧角鑑定書及び鈴木検調(一)が指摘するとおり、咬傷があれば、動物の歯牙による損傷の痕跡が見られるはずであるのに鈴木鑑定書にはそのような記載がなく、動物の咬傷によって、膣の内部、特に膣穹隆部にまで深く裂創を生じさせることは考えられないから、咬傷の可能性はないものというべきである。

したがって、鈴木検調(一)、牧角鑑定書等が、組織間出血が認められない場合として掲げる点は、理由がないか若しくは本件にあてはめるのが相当でないことになる。

(6)について

原第一審で取り調べられた司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書によると、本件犯行現場は、雑木や笹の密生している山地であり、被害者はやぶ内であお向けとなって殺害されていたが、その胸腹部位及び両肢大腿部は露出してさらされ、腰部には化繊緑色ワンピースが両袖を脱がしてまくり上げられ、巻きついている、頭部には格子じまのフランネル製ズロースが載せられ、左大腿部上には、脱がされた木綿白ズロースが載せてあり、両足は茶色靴下を履き、更にその上にソックスを履いているが、左足ソックスは足首部に下垂している、という状況である。これによると、被害者の死体は、両足に靴下とソックスを履いている外は下半身裸体であるが、鈴木鑑定書によれば、四肢に特記すべき異常所見を認めていない。鈴木検調(一)は、姦淫中もがいて受傷する可能性の高いのは尻や足であるが、足には長い靴下をつけていたし、尻にはスカートを敷くかたちになり、いずれも受傷しにくかった、とするが、前記検証調書添付の犯行現場における被害者の写真を見ると、右足のソックスは大腿中央付近まで上がっているものの、左足のソックスはふくらはぎの中央付近まで下げられているし、尻の部分は、必ずしもスカート(ワンピース)を敷くかたちにはなっていないようにも見られ、鈴木検調(一)があげる理由は、その余の点も含めて、それほど説得力のあるものとはいえない。

右の次第で、陰部損傷の時期を、生前でかつ頸部絞扼以前とする見解があげる理由は、いずれも、当裁判所をして首肯させるに足りるものとはいい難い。

そこで、次に、犯行順序に関する新証拠である太田鑑定書(一)、上田鑑定書(一)等が指摘している生活反応としての組織間出血についてみると、右各鑑定書のほか太田意見書添付の法医学書(抜すいの写)等によれば、「出血は生活反応の中でも最も重要なものであって、外力の作用で血管が損傷されると血管の循環血液は血管外に出る。生体では血液は血圧によって圧出され、組織内に浸入して凝固する。析出した線維素は血球成分を包みつつ周囲の組織にしっかりと膠着するので、切開して流水で洗ったりガーゼで拭いたぐらいでは取れない。(以上は、富田功一外編「標準法医学・医事法制」)問題は受傷後間もなく死亡した場合であるが、生前の出血では血液は凝固し、組織間に出血を生じるから、損傷部に割を加えて、組織間出血(特に皮内、皮下、脂肪層)の有無をしらべることによって、生前のものか、死後のものかを判別することができる。いずれにしても、生活反応によって、個体の死亡時期の前後数分間の誤差の範囲で受傷時期を判断することも可能である。(以上は、城哲男外九名著「学生のための法医学」)」としており、組織間出血は、生前受傷の重要な決め手になっているのであって、このような見解を踏まえて、太田意見書も、一般に鈍体による損傷は、生前の受傷では組織間の出血を伴うもので、もしこれを認めることができなかったら、その創傷を生前のものとはしないのが法医学の常識である、としているのである。もっとも、その例外も存するのであって、ショックや脳障害などで血圧が著しく低下している場合には出血が極めて弱いことがあるし、車両による轢断や爆発或いは高所からの墜落等で一挙に身体が離断、粉砕されて即死したような場合には、断端部の出血が軽微であったり、これを欠くことがある(以上は、前記「標準法医学・医事法制」による。)が、本件はその例外にあたるものではない。

鈴木鑑定書及び鈴木検調(一)によれば、陰部損傷は、大きく分けて、(1)膣孔周囲の上下に約四センチ、左右に約三センチの卵形に皮下組織が露出した傷で、膣前庭、小陰唇は形がなく、大陰唇の大部分も表皮がないもの、(2)右大陰唇の露出した皮下組織面にある約一センチメートルの外部から内部に向かう筋肉内に達する創、(3)後膣壁における膣孔入口から穹隆部に至るまでの裂創で、膣粘膜がなく筋肉が露出しているもの、の三個で、高度の損傷というべきであるのに、外陰部の裂創は出血が認められるが周囲の生活反応はほとんどない、というのである。そして、右の「生活反応はほとんどない」の意味は、鈴木証言(一)及び鈴木検調(一)によると、傷自体に組織間出血が発見できなかったということであるから、犯行順序に関する新証拠が指摘するとおり、前述の生活反応という面からみれば、陰部損傷は、鈴木検調(一)及び牧角鑑定書がいうように生前かつ扼頸以前に生じたものということはできず、他方、前述のとおり被害者の前頸部にある革皮様化の皮下出血は生活反応であって明らかな生前受傷であることからすると、陰部の損傷時期は、死戦期以後、すなわち、頸部絞扼よりも後ではないかとの合理的疑いが生ずるものといわなければならない。

(三) 胸部損傷の時期について

犯行順序に関する新証拠によると、胸部損傷の時期について、北条鑑定書は、特段の理由を示すことなく、呼吸も心臓も停止した時期以後であるとし、太田鑑定書(一)及び上田鑑定書(一)は、六歳児では既に毛細血管も十分大人と同様に発達しており、血圧も成人とあまり大差がないため、筋内出血がないのは死後の傷と考えるべきであるとし、更に、内藤意見書も、生活反応が全くなかったと理解されるから、死後の損傷とすべきであるとする。

これに対して、旧証拠である古畑鑑定書は、前記のような理由で、胸部損傷を生前のものと推定し、同じく旧証拠である鈴木鑑定書は、出血等の生活反応が全く認められないから死後のものとしている。

右各証拠のほか、更に、原審及び当審において、次のような証拠が取り調べられた。すなわち、

(1) 鈴木証言(一)によると、(ア)胸壁には肋間動脈、静脈があるから、生前の損傷とすれば左肋膜腔内にもっと出血があるなど生活反応があってもよいのに、生活反応らしきものが発見できなかった、(イ)これに対して、肺の出血膨大部があったが、これは、肺の組織内の出血であるから生活反応としか考えられず、しかも非常に限局しているから外傷性である、そうすると、肺の方からみれば生前の損傷のように思えるが、胸壁にはあまりにも変化がないため、結局は死後の損傷と判断したが今でも疑問が残っている、(ウ)扼頸との先後については、陰部損傷の時期を除いて考えれば、首の方には生活反応が明らかに出ているが、左胸部の方にはあるかないかわからないから、扼頸の方が先である、として、胸部損傷は扼頸より後の死後に生じたと述べている。

(2) ところが、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、(ア)左胸部の革皮様化部は断面を切開して見ていないから皮内出血の有無は不明であるし、大胸筋、前鋸筋の挫滅部やその周辺も切開して筋肉内出血の有無を確めてはいない、第四肋間筋が断裂していたが、筋肉が断裂した場合には、筋肉内を走る小さい血管が切れてもその断端から血液が外に出てしまって筋肉内出血を残さないものである、いずれにしても、被害者は、陰部からの大量出血や姦淫を受けたことによる恐怖と緊張で、生活反応が出にくい状態にあった、(イ)肺の膨大部は、上葉前下縁、下葉後下縁のものとも出血して膨大しており、それは生前の傷であることを示している、上葉の膨大部は、胸壁の損傷部と位置的に対応しているから外力で同時にできたと思われるし、下葉の膨大部も対側打撃の機転で上葉の膨大部と同時に外力性で生じたものである、(ウ)左肋膜腔内の淡赤色の液体は、肋間筋の断裂部や大胸筋、前鋸筋の挫滅部から出血した血液によって淡赤色になったものである、とし、鈴木鑑定書の見解を変更して、胸部損傷の時期は生前で、かつ、陰部損傷の後であり、頸部絞扼との関係では、その先後関係はいずれともいえない、と述べている。

(3) 井上鑑定書によると、(ア)胸部損傷は、生前であれば皮下の脂肪組織内に非常に目立つ広範囲にわたる溢血が生じるのに、これが確認されないから、表皮剥脱部は生前ではなく、死戦期もしくは死直後の時期(死戦期の方が公算大)に惹起された、(イ)肺の出血膨大部は、窒息死の際にたまたま惹起された肺実質内の出血巣であり、外傷性のものとは認め難い、(ウ)胸部損傷の時期は、頸部絞扼後で、陰茎挿入による膣破裂前である、としている。

(4) 牧角鑑定書及び牧角証言は、頸部損傷の所見から、被害者が扼圧後急激に死亡した可能性があることを前提としたうえで、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)と同旨の理由により胸部損傷の時期を生前とし、陰部損傷も前記の理由で生前受傷であることから、胸部及び陰部の各損傷はいずれも頸部扼圧より前である、とした。なお、胸部と陰部の各損傷の先後については、牧角鑑定書では、発生順序を推定するには資料不足としながら、牧角鑑定補充書及び牧角証言においては、陰部からの大量出血と胸腔内の出血が少量であったことを比較し、胸部損傷は陰部損傷より後に生じたとする方が合理的である、としている。

以上のとおり、胸部損傷の時期を死後とする犯行順序に関する新証拠、鈴木鑑定書及び鈴木証言(一)(井上鑑定書は、死戦期の公算大としている。)に対し、胸部損傷時期を生前で、かつ陰部損傷後とするのは、古畑鑑定書、鈴木検調(一)、鈴木証言(二)、牧角鑑定書、牧角鑑定補充書及び牧角証言である。

そして、胸部損傷時期を生前でかつ陰部損傷後とする見解の理由をまとめると、

(1) 胸部損傷外表部の革皮様化が褐色を呈しているのは、生活反応である皮内出血を伴っているからであること、

(2) 左肺の膨大部出血は生前に外力が作用した結果であること、

(3) 左肋膜腔内に淡赤色の液体が存在することは出血があったことを示しており、これは生活反応であること、

の三点を生前受傷の積極的根拠としており、

(4) 本件被害者のような幼児においては皮下出血を伴わない生前の損傷があること、

(5) 陰部からの大量出血による貧血状態と姦淫を受けたことによるショック状態のため血圧が低下し、生活反応が出現しにくい状態にあったうえ、解剖の際の検査が不十分であったため生活反応を示す出血所見が看過されたと考えられること、

(6) 肋間筋が断裂して筋肉内の血管が切れても、その断端から血液が外に出て筋肉内出血を残さないものであること、

の三点を、胸部損傷に生活反応を示す出血所見が認められなかった理由とし、胸部損傷が死後であるとする見解を否定する根拠としている。

以下、これら(1)ないし(6)の各点について順次考察する。

(1)について

古畑鑑定書は、胸部の革皮様化が褐色を呈しているのは皮膚組織内に出血を伴っているからであると推定し、鈴木証言(二)、牧角鑑定書等も同旨の意見であるが、太田鑑定書(一)及び太田証言によると、革皮様化という現象は、表皮剥脱が乾燥して硬くなったものであるが、これは、時間がたつにつれて、たとえ死後生じたものでも褐色調を増してくるもので、その表皮剥脱が生前に生じたかどうかは、皮内出血を認め得るかどうかによって判定されるのであるから、褐色調であるからというだけで直ちに皮内出血があったということにはならない、としており、上田鑑定書(一)及び上田証言も同旨の意見である。そして、鈴木鑑定書には、革皮様化部に皮内出血を認めた旨の記載はないし、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、革皮様化部の断面を切開して見ていないから皮内出血の有無は不明であり、したがって、革皮様化部の色調が褐色であることをもって、胸部損傷の時期が生前である根拠とはなし難い。

(2)について

古畑鑑定書及び古畑証言は、左肺の濃赤紫色の部分が膨大し内部に出血が認められるのは、肺組織の中に出血し、しみ込んでいるということであるから生活反応であり、外力の影響によるもので、胸部に加えられた打撃と一連の関係があると推測しており、鈴木証言(一)は、出血膨大部は組織内出血であるから生活反応であり、限局しているから外傷性であるとし、鈴木検調(一)、鈴木証言(二)、牧角鑑定書、牧角証言とも同旨である。

これに対して、太田鑑定書(一)は、左肺上葉前下縁の膨大部につき、割検して組織間の出血をしらべていないし組織学的検索もなされていないので、外傷性のものか非外傷性のものか判断は困難であるし、左肺下葉後下縁の膨大部は、左胸部の一連の損傷と部位的に合致しないから、生前の損傷であるとの証拠は薄弱であるとしており、太田証言は、(ア)上葉前下縁の膨大部は、窒息死(遷延性の方が出やすい。)の場合に出ることのある大理石模様(肺の表面に蒼白な部分と赤褐色又は赤紫色の部分が交互に出現するもので、赤紫色の部分には血が寄っている。)の非定型的なものということも考え得るし、遷延性窒息死の場合に、肺に起こる浮腫とも考え得る、(イ)下葉後下縁の膨大部は死後の血液就下でも起こる部位であるから死後の現象の可能性もある、としている。

又、上田鑑定書(一)及び上田証言は、死戦期にできた血液吸引巣であるとし、血液の肺胞内吸引の場合、生前に吸引が起こったときは多数の左右肺小葉内に吸引巣を見るのが普通のことであるが、死戦期前後には左右肺のごく一部にこのような吸引巣を認めるだけのこともかなりしばしばあり、窒息の際の最後の一呼吸のときに入ったものではないか、としている。

井上鑑定書は、窒息の際にたまたま惹起された肺実質内の出血巣で、窒息の際は、肺に多数の溢血点が現われるだけでなく、往々にして、肺の諸所に比較的小さい出血巣が出現する、としている。

更に、内藤意見書は、(ア)窒息に際して生ずることのある肺気腫で、部分的に膨隆したために肺胞壁が破綻して出血したものである、(イ)限局性の気腫が強いとその部分が膨大するわけであり、肺胞に破綻を伴えば小出血の生ずることは当然である、としている。

このように、左肺上、下葉の膨大出血部の成因については種々の見解が述べられているので、以下それぞれ検討を加えることとする。

まず、左肺の出血膨大部が外力性のものであるとする見解から検討すると、鈴木検調(一)、牧角鑑定書等によれば、この見解は、胸部損傷を本件石の殴打によるものであることを前提とし、石が第四肋間を広げて、その先端が肺実質部に直接触れることなく介達的に力が加わったことによる出血膨大部であるとする。このような見解が成り立つためには、左胸部外表の革皮様化部、大胸筋等の挫滅部及び第四肋間の穿孔部と、左肺上葉前下縁の出血膨大部とが位置的に合致することが当然必要となるが、この点について、鈴木証言(二)は、「大体合う」とする程度で、解剖時の所見としては、肋間筋穿孔部の創底には肺を認めただけで出血膨大部を認めてはおらず、位置が一致することはない、としているのであって、鈴木検調(一)が述べる、呼吸によって肺の位置は上下に移動するから位置的な範囲は相当動く可能性があるという点を考慮しても、合致してはいなかったと認めるのが相当である。又、左肺下葉後下縁の出血膨大部については、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)は、肺の対側打撃の機転で上葉前下縁の膨大部と同時に外力性でできたものと説明するが、対側打撃とすると、下葉後下縁の膨大部の位置が上葉前下縁のそれの位置より少し下になるため、この点を、被害者が横たわっていた斜面の斜度と犯人が殴打したであろう角度の推定から説明し、ほぼ一直線になって外力性で生じたと考えても矛盾はない、と説明するものの、対側打撃の機転で考えると、ずれがあることには変わりがないというべきである。牧角鑑定書及び牧角証言は、左肺下葉後下縁の出血膨大部を、本件の被害者は幼児で肋骨に弾力性があるから、胸部に強い打撲的衝撃を受けた際に胸廓が急激に、かつ相当な深さまで圧し下げられるためその衝撃で肺が後ろの方に打ち当たってできた、とするが、後に、「胸部損傷の成傷用器」の項で詳しく検討するように、幼児の肋骨が弾力性に富むことを考慮しても、肋骨々折がなく骨膜にも変化が認められないまま、右の説明のごとく、本件石による打撲的衝撃によって胸廓が急激に、かつ相当な深さまで圧し下げられるかどうかはなはだ疑問といわなければならない。したがって、左肺の出血膨大部の成因を本件石による外力によって生じたと説明するには無理があるというべきである。

次に太田証言は、出血膨大部を、大理石模様、肺の浮腫等ともしているが、これは、外傷性のものとすると説明がつかないため、ほかの説明を考えた場合の可能性として述べている程度で、積極的にこれらが成因であるとまで述べているわけではなく、同人の考えは、太田鑑定書(一)に述べられているとおり、上葉前下縁の膨大部は外傷性のものか非外傷性のものか判断は困難で、下葉後下縁の方は生前の肺損傷である証拠が薄弱である、というところに止まっているとみるべきである。

上田鑑定書(一)及び上田証言は、血液吸引巣とするが、鈴木検調(一)によれば、肺胞に至る道筋は、気管支、気管支枝に分かれて吸引されるのであって、少量の血液がある特定の気管支枝にのみ、しかも左肺にのみ、限局的に膨大するほど吸引されることは考えられないので、この見解は採り得ないというべきである。

井上鑑定書は、窒息の際にできた肺実質内出血巣とし、これに対して、鈴木検調(一)等は、そのような出血巣であれば両肺全体に現われなければならないのに本件は左肺の一部に限局しているし、そのような溢血点が小指頭大や栂指頭大にまで膨大することは考えられない、として反論している。又、内藤意見書の肺気腫との説明に対して、牧角意見補充書及び鈴木検調(二)は、窒息の際の肺気腫は、空気を吸引した後気道が閉塞し、空気を出せないために肺胞が膨らむことをいうのであるが、これは肺全体にわたる症状で、限局的に血が栂指、小指頭大に貯溜するほど出血しないし、肺気腫の場合は、解剖の際極めて特徴的な気胞形成が肉眼的にも認められるのが常であるのに、本件にはそのような所見はないし、肺全体としてみても膨大化等肺気腫の所見は認められない、と反論している。

しかしながら、当審において検察官から提出された捜査関係事項照会に対する内藤道興の回答書謄本によれば、左右の肺所見が常に一致するものではないうえ、当審において弁護人から提出された上野正吉著「新法医学」(九七、九八頁)、四方一郎外一名編「現代の法医学」(九一頁)、富田巧一著「法律家のための法医学」(三〇〇ないし三〇二頁)(以上いずれも抜すいの写)によると、窒息死の場合は、肺に一部出血を伴った肺水腫や肺気腫を認めることが多いし、牧角意見補充書にいう肺気腫の場合の特徴的な気胞形成も、常に必ずこれが認められるとまで述べているわけではなく、同補充書に引用されている法医学書の比較的詳細な肺気腫に関する説明の中にも気胞形成の点は述べられていないことからすると、本件の左肺実質の出血膨大部の成因を、窒息の際にできた肺実質内出血巣、肺気腫による出血或いは出血性肺水腫として説明することも可能であるといわなければならない。

以上の次第で、左肺に出血膨大部が存在することをもって、生前に外力が作用した結果であるとすることはできないというべきである。

(3)について

左肋膜腔内の淡赤色の液体については、太田意見書及び内藤意見書も指摘するとおり、第四肋間筋の死後損傷部から血液が就下してできたと考えることもでき、生活反応の根拠とはならない。

(4)について

この点については、太田鑑定書(一)及び太田証言は、皮膚毛細血管は、皮膚乳頭層ができたときには当然できているもので、六歳ともなると成人と同程度に完成されているといっても過言ではなく、血圧も成人とあまり大差がないとしており、上田鑑定書(一)も同旨であって、両鑑定書とも具体的に六歳児の血圧の統計上の数値を引用して論証しているところから判断すると、六歳児が生前に受傷した場合に、成人より皮下出血が出現し難いとは即断できないと思われる。

(5)について

先に、「陰部損傷の時期」の項で述べたとおり、被害者の死体には、陰部からの大量出血を推認させるほど高度の貧血症状はなかったというべきであるし、陰部の損傷部位から大量の出血があったかどうかも疑わしいのであって、陰部からの大量出血による貧血状態のために血圧が低下し生活反応が出現しにくい状態にあったという見解は、前提を欠くものとして失当である。又、被害者が姦淫を受けたことによるショック状態のため血圧が低下したとの見解も、あくまで推測にすぎないのであって、これを前提に生活反応が出現しにくい状態にあったとすることは相当でない。

又、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によれば、解剖の際の検査が不十分で自分の手落ちにより、生活反応を示す出血所見を看過したかもしれないとするのであるが、この点も、先に、「陰部損傷の時期」の項で述べたとおり、証拠の評価上は意味の乏しいことであるが、少なくとも、鈴木検調(一)においても述べられているように、一見してわかるような筋肉内出血、凝血はなかったということはいい得る。

(6)について

この点も、先に、「陰部損傷の時期」の項で述べたとおり、このような見解は採用できない。

以上のとおりで、胸部損傷時期を生前で、かつ陰部損傷後とする見解の根拠は、いずれも理由のないものといわなければならない。

犯行順序に関する新証拠も指摘するとおり、本件の胸部損傷は、外部から内部に向かって、左胸部外表の革皮様化、大胸筋等の筋肉挫滅部、第四肋間筋の穿孔部といった高度の損傷があるのに、それらの筋肉内等には一見してわかるような筋肉内出血、凝血等の生活反応が全く認められなかったこと、それにもかかわらず、これらの創底にのみ、古畑鑑定書等が生前受傷の大きな根拠とする肺の出血膨大部といった生活反応が出現するのは、法医学的に理解し難く、これを外力性以外の成因で説明することも可能であること、しかも、これまで検討したように、前記のような生活反応が出現しない特段の事情も認められなかったのであるから、胸部損傷の時期は、生前(頸部絞扼以前)に生じたものとは断定し難く、頸部絞扼以後のものではないかという疑念が生ずるものといわなければならない。

(四) 以上の次第で、犯行順序に関する新証拠と旧証拠、原審及び当審において取り調べられたその余の各証拠を総合して検討すると、被害者の陰部に損傷を生じた時期と左胸部に損傷を生じた時期は、被害者の頸部が絞扼された後であるとする合理的な疑いがあるものというべきである。なお、陰部に傷害を与えた行為と左胸部に傷害を与えた行為の先後関係は、犯行順序に関する新証拠によっても明確ではなく、これらの行為が扼頸後のどの段階でなされたのかを確定し得る資料は十分でない。

二  陰部損傷の成傷用器について

1  弁護人は、原審において提出した北条鑑定書、太田鑑定書(一)及び上田鑑定書(一)並びに当審において提出した太田意見書及び内藤意見書(以上の各鑑定書及び各意見書が新規性のある証拠であることは先に述べたとおりであり、以下これらの証拠を「陰部損傷の成傷用器に関する新証拠」ともいう。)に基き、被害者の陰部損傷は陰茎によっては生じ得ず、したがって、被害者を強姦したとの請求人の自白は虚偽である旨主張する。

2  請求人の自白によると、請求人が被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入した、というのであるが、これに対して、陰部損傷の成傷用器に関する新証拠は、次の(一)ないし(四)のとおりである。

(一) 北条鑑定書

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

普通の成人男性の陰茎は、普通の六歳の少女の陰部内に挿入できない。無理に挿入しようとすれば、まず処女膜の裂傷を生ずる。その際普通六歳の幼女では疼痛がひどいはずである。陰部の奥の方に挿入しようとしても、小陰唇も大陰唇も広く開かないし、膣も浅く狭いので、普通男性の陰茎はその先端付近までの挿入すら困難で、それ以上挿入しようとすると種々の程度の外傷が発生する。本件の陰部損傷は単なる男性の陰茎によって生じたものらしくはないように思う。それ以外の物体、例えば手指等で傷害されたものもあるのではないかと判断される。

(二) 太田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

統計によると、成人陰茎の膨脹時の平均(一五例)の大きさは、陰茎長が一一・九センチメートル、亀頭長が三・八五センチメートル、亀頭冠囲が一一・七五センチメートル(略々三・五センチメートル径)で、膨脹時の陰茎を半分一回挿入したと解すると、約五・九五センチメートル挿入されたことになり、亀頭は全部挿入されたものと思われる。被害者は六歳の女児であり、その膣は狭く、浅いから、小指でも挿入は困難で、前記のような陰茎をその膣に深さ五・九五センチメートル内外も挿入するのは容易なことではないが、無理に挿入すれば絶体不可能とはいえないものの、その場合は大きな裂創が生じる。ただし、本件の損傷度は、一回の陰茎半分の挿入で生ずるにしては、大きすぎる。

右鑑定書のほか、太田証言によると、小陰唇や膣前庭の形がなく、大陰唇の皮下組織が露出するような損傷や、右大陰唇の筋肉内の創といった損傷は、陰茎とか指の挿入ではできず、外陰部の表皮剥脱については、陰茎の挿入以外に、手指でむしったり、棒きれのようなもので損傷を加えたことによるもの、と供述し、太田意見書によると、卵巣、子宮、膣は一〇歳以降急速に成長するが、外陰部は生後七歳までは出生時と大差がなく、六歳の女児の性器は完全に未熟な状態にある、と述べている。

(三) 上田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

太田鑑定書(一)の見解に賛成である。陰茎によって、生前でも死後でも、本件のような物質欠損を伴う損傷を与えることは無理であるが、陰茎以外のかなり硬い鈍器によってなら可能である。又、外陰部の損傷については、野鼠によって食われた死後損傷と考えることもできる。

右鑑定書のほか、上田証言によると、膣穹隆部まで陰茎が入っているとしたら、無理やり入れたということで、膣裂創ができてしまうほどであるから、陰茎の先にも損傷を負う、と供述している。

(四) 内藤意見書

同意見書の要旨は、次のとおりである。

皮膚に欠損部分があって皮下組織が露出し、大陰唇において皮下組織面に筋肉内に達する創を伴うような損傷が、成人男子の陰茎の挿入のみによって生じ得るとは考えられない。膣後壁の穹隆部に達する裂創は、陰茎挿入によって生じ得る。しかし、六歳の幼女の膣孔を損傷しつつ陰茎を挿入するには、後方へ向かい肛門に達するほどの裂創を生じさせないと不可能である。前方は恥骨結合が存在することによって創を拡げられないので、どうしても後方に向かって拡張されなければならない。このような損傷が陰茎亀頭の圧力で可能であるとしても、挿入に際してかなり強い抵抗と陰茎に著明な疼痛を感ずるし、亀頭表皮や陰茎包皮に損傷をこうむることがあり得る。なお、外陰部の損傷は、死後、動物損壊の加えられた可能性が大きい。

3  陰部損傷の成傷用器に関する新証拠は、右にみたとおりであるが、旧証拠である鈴木鑑定書は、(一)損傷の程度は高度で、膣壁は穹隆部にまで裂創を起こしていることから、細長い鈍器を無理に挿入して生じたと思われる、(二)右大陰唇の部分には比較的鋭利な創が認められるから、尖端の比較的硬い鈍器にても生じたものと推定される、(三)成傷用器としては、外陰部は指先或いは陰茎様のものと推定される、としている。

そして、原審及び当審において取り調べられた証拠は次の(一)ないし(四)のとおりである。すなわち、

(一) 鈴木証言(一)によると、(1)陰部損傷は、成人男子の陰茎半分を一回挿入しただけでできる可能性がある、(2)大陰唇の深さ一センチメートルの創だけは、尖端がとがったものによる、(3)成傷用器は、比較的やわらかい、表面のなだらかなものである、と供述している。

(二) 鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、(1)膣孔入口から膣穹隆部に至るまでの裂創と膣前庭、小陰唇、大陰唇の皮下組織露出は、陰茎でできたものである、外陰部の傷の形態が卵円形ということは丸味を帯びた鈍器ということで亀頭部は適している、(2)皮下組織の露出は、接触面のやわらかいもので表皮が巻き込まれるようになって剥離し、皮下組織が露出した、幼児であるから粘液の分泌がなく、膣孔付近はやや乾燥状態にあるので、陰茎の亀頭部を没入させ、腰を使ったピストン運動が行われると、きしんで周辺のもろい表皮や結締織を巻き込み大きな表皮欠損が生ずる、(3)大陰唇の筋肉内に一センチメートル達する創は、陰茎が無理に挿入された際に表皮から粘膜への移行部分が巻き込まれ、膣孔内に押し込まれた大陰唇の表面にひっぱりの力が加わりそのために生じたとも考えられるし、陰茎とは別に手指の先を挿入した時に生じた可能性もある、と述べている。

(三) 井上鑑定書によると、(1)陰部の外傷性異常は、被害者の膣の中へ非常に大きな(太い)物体が無理に(暴力的に)挿入されたために惹起されたものである、(2)膣壁の裂けた部分以外の膣粘膜には破綻や粘膜剥離欠損等の外傷性異常がないから、陰茎である可能性ははなはだ濃厚であって、その他の物体、例えば、細長い鈍器とか尖端の比較的硬い鈍体とかは、ほとんど考慮する必要がない、(3)陰茎の挿入はいかに暴力を使ったとしても大変な困難があったはずであり、それまでにはいろいろと手指等による暴力的いたずらを重ね、それに相当の時間がかかったものと思われる、大陰唇などに大きな表皮剥脱や一部の皮膚表層部の消失巣などがあるのは、おそらく、陰茎挿入前のこうした淫行によって惹起されたものである、としている。

(四) 牧角鑑定書及び牧角証言によると、当時二五歳の成人男子の陰茎の挿入によって本件損傷が生じたとみることは可能であり、その場合、勃起した陰茎を無理に挿入しただけでなく、相当激しい擦過的かつ圧挫、圧排的な前後運動をくり返すことによって発生した、としている。

右のとおり、陰茎によって、或いは陰茎のみによって本件の陰部損傷が生ずるか否かは見解が分かれている。

4  よって、前掲の陰部損傷の成傷用器に関する新証拠(各証言も含む。)と旧証拠を、原審及び当審で取り調べられた陰部損傷に関する右各証拠をも含めて比較検討し、陰部損傷の成傷用器について考察する。

まず、当審において検察官から提出された幼児強姦に関する裁判例(千葉地裁松戸支部昭和四二年六月一日判決・下級裁判所刑事裁判例集九巻六号、東京高裁昭和五三年一二月二二日判決・東京高等裁判所刑事裁判速報第二三二四号)によれば、幼児の強姦は可能であるということはでき、ただその際には膣から肛門付近にかけて裂創を生ずるなどの陰部損傷を伴うことになる。

本件被害者の陰部にも前記のとおり高度の裂創や表皮剥脱が認められたのであるが、陰部損傷の成傷用器に関する新証拠も指摘するとおり、右の損傷は、陰茎を半分くらい挿入したというだけにしてはあまりにもその程度がひどく、北条鑑定書は、陰茎以外に手指等で傷害されたものもあるのではないか、とし、太田証言は、外陰部の表皮剥脱については陰茎の挿入以外に手指でむしったり棒きれのようなもので損傷を加えたとし、上田鑑定書(一)は、陰茎以外のかなり硬い鈍器による損傷ないし外陰部損傷は野鼠による死後損傷と考えることもできるとしているほか、右の新証拠以外でも、鈴木証言(一)及び鈴木検調(一)は、陰茎のほかに手指の先を挿入した可能性を否定せず、井上鑑定書も、陰茎挿入以前に手指等による暴力的ないたずらを重ねたと思われるとしているのである。

これに対し、牧角鑑定書及び鈴木検調(一)は、勃起した陰茎の亀頭部を無理に膣孔に挿入したうえ、相当激しく前後運動をくり返すことによって本件の陰部損傷が発生する、としているが、請求人の自白調書によると、「自分の大きくなった蔭部を女の子のおまんこにあて右手で持って押しあて腰を使ってグッと差入れました。半分位入ったと思います。女の子はもがき乍ら、痛い、おかあちゃん、と力一杯泣くので、左手では押え切れなくなり、私は構はず腰をつかいましたが、余り暴れるので思う様に出来ず、私は、やっきりして、おまんこをやめて……」(請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付供述調書)と供述し、腰をつかったが、思うようにできず、やめてしまった、と述べているのであって、請求人の右自白が、相当激しい前後運動をくり返したことをも含む趣旨の供述であるとみることには無理があり、右のような自白の内容からすれば、右牧角鑑定書及び鈴木検調(一)が述べるような成傷機転を前提として本件陰部損傷が生じた、とする見解は、にわかに採用し難いものといわなければならない。

そうすると、被害者の陰部損傷の状況は請求人の前記自白と符合しないものというべきであるし、仮に前記新証拠等が述べるように、陰茎以外に指等の異物を挿入し本件のような高度の陰部損傷を生じさせたとするならば、そのような物を用いたという犯行方法の重要な部分について何ゆえ請求人の自白調書に記載がないのか、これ又、理解し難いところといわなければならない。

加えて、上田証言及び内藤意見書も指摘しているとおり、未発達な浅く狭い女児の膣に裂創等の損傷を与えながら陰茎を無理に挿入するわけであるから、このような場合、陰茎に著明な疼痛を感じるし、亀頭表皮や陰茎包皮に損傷をこうむることもあり得るのに、請求人の自白調書には、性交に伴う陰茎の疼痛や損傷について触れられていない。この点は本件が幼児に対する強姦致傷という特殊な事件であることに鑑みると、言及するのが当然であり、かつ容易に説明することができる事柄であると思われるのに、何ゆえ説明が欠落しているのか、不審といわざるを得ない。

これらの点を考慮すると、陰茎挿入に関する請求人の自白の真実性に合理的疑いを生ずるものといわなければならない。

三  胸部損傷の成傷用器について

1  弁護人は、原審において提出した太田鑑定書(一)、(二)及び上田鑑定書(一)、抗告審において提出した助川義寛作成の鑑定書(以下「助川鑑定書」という。)並びに当審において提出した太田意見書、太田意見補充書(二)及び内藤意見書に基き、本件石では被害者の胸部にあるような損傷はできない旨主張する。

2  右に掲記した証拠のうち、助川鑑定書は、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、新規性のある証拠ということができ、その余の各鑑定書等が新規性のある証拠であることは先に述べたとおりである(以上の各鑑定書、各意見書及び意見補充書を、以下「胸部損傷の成傷用器に関する新証拠」ともいう。)。

3  請求人の自白によると、本件石で被害者の左胸部を二、三回或いは数回力一杯殴りつけたというのであるが、これに対して、胸部損傷の成傷用器に関する新証拠は、次の(一)ないし(五)のとおりである。

(一) 太田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

第四肋間筋を挫滅させて筋を消失させるような強い作用を及ぼすからには相当強く打撃したものと思われる。七歳児では第四肋間が約一センチメートルであるから、たとえ肋骨に弾力性があったとしても第四、第五助骨が全く損傷を受けていないというのは不自然である。

(二) 太田鑑定書(二)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

本件石と同じ形状の石膏模型石を作り、粘土を叩打して、粘土に形成された形と、本件被害者の左乳房下部の表皮剥脱の形等とを比較したが、形状及びその大きさは合致しなかった(もっとも、人体と粘土とは物理的性状が異なっているので、その不合致を絶対視することは危険である。)。日本人七歳女児の平均値より大きめに、胸廓の一部模型を作り、その第四肋間に模型石の先端部分を当ててみると、肋間の表層(浅層)は、石によって挫滅され得る可能性はあるが、下層(深層)は挫滅等の影響は受けない。もし、下層が挫滅される場合は当然第四、第五肋骨も挫傷を受けるはずであり、本件のように、肋骨に損傷がなくて肋間筋が挫滅されて肺に達するということは、本件石では形成されない。

右鑑定書のほか、太田証言によると、(1)第四肋間は七歳児では約一センチメートルであるが、呼吸運動で肋骨が上下するから最大幅は一・二センチメートルくらいとして、このような幅のところを通って、深いところにある内肋間筋や肋膜まで石の先は届かない、(2)第四肋間の筋肉の挫滅が非常にひどいが、このような損傷は凶器が筋肉等を介在させながらその損傷のある部位まで入り込まないとできない、(3)肋骨々折が生じないで曲がるとか、くぼむということがあるとしても、本件石の形状からして、第四肋骨下縁、第五肋骨上縁の部分の骨膜に部分的な損傷を与えることは避けられない、と供述し、太田意見補充書(二)によると、大胸筋等が挫滅されて皮膚だけが残っており、しかも、これが伸展されて薄くなっているのであるから、被護膜を介して本件石が当たったといっても、肋骨を被う骨膜も傷つきやすい性状のものであるため、それ相応の肋骨表面の変化がみられなければならない、としている。

(三) 上田鑑定書(一)

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

胸部に一撃を加えそれによってすべての胸部の傷が生じたと仮定した場合、本件石ではこのような傷のできる可能性はほとんど皆無であろう。胸部に二、三撃を加えそれによって胸部の傷ができたとした場合、それは、本件石に類似のかなり重量のある角のある凶器で、しかも、ある面に溝のあるような凶器であろう。本件石では肋間の表層のみに達し、第四肋間に穿孔をきたすのは著しく困難である。

(四) 助川鑑定書

同鑑定書の要旨は、次のとおりである。

本件石によって左胸部の表皮剥脱が生じるか否かについては、損傷の形態を正確に観察する資料があまりにも不足していて、右の表皮剥脱が本件石によるものか否かを判断することは困難である。

本件石の表面はあまり粗雑でもなく角稜もない。この固い物体をもって被害者の胸部を力一杯殴打したならば表面は剥脱し、内に硬固な骨があれば、その直上の皮膚は挫滅する場合もあり、皮下脂肪や筋肉等の軟部組織は挫滅する。すなわち、外表から内部臓器に至るまで連続的な損傷が惹起される。ただし、肋骨では、骨膜や肋膜に出血がきても骨折を生じない場合もある。

(五) 内藤意見書

同意見書の要旨は、次のとおりである。

幼児の胸廓という条件下で肋骨々折を伴うことなく胸廓が深く押し下げられるためには、手掌のような広い作用部分を有する鈍体を押し当てて後方に向かって圧迫することによって可能であり、局所的な打撲的作用では生じ難く、左肺に直達的損傷を与えることも不可能である。左胸部損傷を生じさせた凶器及びその用法について明確に推定することは困難であるが、少なくとも本件石による打撃とすべき根拠はない。

4  胸部損傷の成傷用器に関する新証拠は、右にみたとおりであるが、旧証拠である鈴木鑑定書は、左胸部の成傷用器は鈍器とのみ判定されそれ以上は判定困難であるとしており、同じく旧証拠である古畑鑑定書及び古畑証言によると、(一)本件石は、これをつかんで殴打するには手頃の大きさであり、ことに、その先端が鈍円をなして突出していることは、本件被害者の胸部の傷を生ずるのに適合する、(二)左胸部の革皮様化は、本件石で殴打すればできる、(三)外表の革皮様化と内部の傷(肋間筋の消失、膨大部出血等)は同じ性質の打撃に基いてできた一連のもので、相当きつい打撃であるが、子供の骨は弾力性があるから骨折はなくてもよい、と述べている。

そして、原審及び当審において取り調べられた証拠は次の(一)ないし(四)のとおりである。すなわち、

(一) 鈴木証言(一)によると、同人は、本件石で左胸部の傷ができるかどうか、今だに、具体的なことは考えたことがない、と供述している。

(二) 鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、(1)左胸部の向かって右側の二つの平行した革皮様化のうち、上の方の革皮様化はその下半分が第四肋骨の下縁に、下の方の革皮様化はその上半分が第五肋骨の上縁にあたる、(2)第四肋間の穿孔部は、肋間筋が断裂して肋骨に向かって収縮しており、そのため第四肋間に穿孔が生じていた、(3)本件石で胸部損傷が生じた可能性は十分あった、すなわち、たたきつけられた石の細目の稜線が肋骨を上下に押し分けるようにして第四肋間に押し込まれ、そのときに、石の表面と、第四肋骨の下縁及び第五肋骨の上縁との間で、表皮がはさまれてこすれ、表皮剥脱ができ、左胸部に向かって右側の二つの革皮様化になった、それと同時に、右の一撃によって、本件石が第四肋間を上下に押し開き、肋間筋が上下の方向にひっぱられて真ん中で断裂した、(4)肋骨に骨折はなかったが、これは幼児の肋骨の弾力性を考えると異常ではなく、その他の骨膜の変化については、第四肋骨の表面の下縁と、第五肋骨の表面の上縁に付着している筋肉を切開して仔細に検討すれば、骨膜の変化が認められた可能性がある、(5)打撃の回数としては、二回であり、向かって右側の上下に並ぶ革皮様化が一撃で生じ、そのうちの下の革皮様化の向かって左側に接する革皮様化がもう一撃で生じた、この向かって左側の革皮様化は、第五肋骨の方だけこすれて、第四肋骨の方にはあまり力が加わっていない、と述べている。

(三) 井上鑑定書によると、(1)胸部損傷の成傷用器は、表皮剥脱を生じているから、まず硬い鈍器でなければならない、そして、表皮剥脱は五個あるが、角ばったものではなくかなり丸味を帯びた形になっているから、凶器も角ばった形のものではなく峰や稜のある物体でもない、本件石には特別角ばったところや稜はなく全体としてどの部分も丸味をもっており、本件石は胸部損傷の成傷用器とみるのが妥当である、(2)表皮剥脱の内部においては、大胸筋と思われる胸廓筋肉にかなり大きな空洞様の組織崩壊巣があり、これに接触する第四肋間の肋間筋にも大きな組織の融解様崩壊が起こっていて、その部分の胸膜も消失した結果、第四肋間において胸廓壁の穿孔をきたしたもののように大きな欠損を生じている。このような筋肉などの組織の融解様崩壊は、外傷によっては全く起こり得ず、その空洞様崩壊が深部に至るに従って拡大した状況になっていること、その崩壊縁が半ば融解した格好になっているらしいこと、左側胸腔内に淡赤色の液が入っていることから、これは嫌気性の有芽胞菌(クロストリジウム菌類)によって生じた体内組織の崩壊(消化)によるものである、としている。

(四) 牧角鑑定書、牧角意見書及び牧角証言によると、左胸部外表の革皮様化、表皮剥脱及び革皮様化に対応する肋間筋等の損傷並びに左肺実質部の出血は、すべて、鈍体の打撲的衝撃によって同時に発生したと考えられ、本件石で左胸部損傷を生じさせることは可能であるとしたうえで、(1)左胸部外表の革皮様化した表皮剥脱群は、左胸部に対し、鈍体がほぼ前方から後方へ向かう形で、強く打撲的、圧挫的に作用して生じたものである、(2)第四肋間の穿孔部は、左胸部に加えられた鈍体の打撲的衝撃によって、第四肋骨が上方へ、第五肋骨が下方へと押し広げられるような凹み方があって、第四肋間筋の断裂が生じた、(3)又、左肺の特定の部位に、しかも溢血点等のように細小なものでなくて相当の大きさを有する膨大出血部があり、しかもその部位は左胸部外表の損傷部と対応する位置にあったというのであるから、これら左肺の膨大出血部は左胸部に加わった鈍体の打撲的衝撃によって生じたものと思われる、被害者は六歳三か月の幼児であるから、左胸部に強い打撲的衝撃を受けた際、胸廓が急激に、しかも相当な深さまで圧し下げられるということは十分可能であり、そのような衝撃が肺に加われば、その当該部位において肺実質部に圧挫的損傷が生じて出血巣が形成される、後下縁の膨大出血部も、このような発生機転によって生じた、(4)胸部損傷の成傷用器としては、硬固な鈍体で、その接触面はざらざらした粗面をもち、特異な凹凸部分が存在するものが推定される、本件石を粘土面に打ちつける実験の結果からみると、本件石を用いた場合、左胸部外表の損傷群のうち、向かって右側の二つの上下の革皮様化の一群と、向かって左側の二つの上下の損傷の一群は本件石の凹みのある個所による二回の打撲的作用によって生じたとみて不合理なところはない。更に、向かって左側の二つの損傷の下にあるもう一つの損傷も本件石の打撲的作用が前記二群のときよりも弱ければ生じ得ると認められ、左胸部には少くとも三回の打撲的行為が加えられたとみれる、と述べている。

以上のとおり胸部損傷の成傷機転及び傷成用器について種々の見解が述べられている。

5  よって、前掲の胸部損傷の成傷用器に関する新証拠(名証言も含む。)と旧証拠を、原審及び当審で取り調べられた胸部損傷に関する右各証拠をも含めて比較検討し、胸部損傷の成傷機転又び成傷用器について以下考察することとするが、その前提となる胸部外表の損傷の形態及び性状についての理解が人によって異なっているので、まず、この点から検討する。

(一) 胸部外表の損傷の形態及び性状について

(1) まず、損傷の形態について検討する。

鈴木鑑定書は、「胸部において左乳嘴の下方に〇・七及び一・〇センチメートルの類四角形の褐色の革皮様化を二個上下に並んで認められる」「下方のものの内側にほとんど接続して横に二・〇×〇・七センチメートル大の同様なる革皮様化及び表皮剥脱を認める」としているが、鈴木検調(一)によると、この中で、「類四角形」というのは角がはっきりしていない丸味を帯びた正方形様のものをさしており、「〇・七及び一・〇」というのは上の小さい革皮様化が〇・七×〇・七センチメートル(以下この損傷を「A」という。)、下の大きい革皮様化が一・〇×一・〇センチメートル(以下この損傷を「B」という。)という意味であり、「二・〇×〇・七」というのは横二センチメートル、縦〇・七センチメートル(以下この損傷を「D」という。)という意味である。又、牧角鑑定書も指摘するように、鈴木鑑定書で「前創(Dを指している。)の周囲には半ごま粒大の表皮剥脱を認める」としているのが、Dの上にある損傷部(以下この損傷を「C」という。)のことと解せられ、そして、Cの下に散在する小さな表皮剥脱群で、向かって左上から右下の方に点々と並んだ形を呈している損傷部(以下この損傷を「E」という。)については鈴木鑑定書において格別の記載がなされていない。

そうすると、左胸部外表の損傷の形態は、鈴木鑑定書、鈴木検調(一)及び牧角鑑定書(これに添付してある、鈴木鑑定書添付の胸部損傷写真を更に拡大した写真も含む。)を参酌すると、次のようになるとみるべきである。すなわち、左乳嘴下方には上下に並んでA、B二個の革皮様化があり、上のAは左右の長さが約〇・七センチメートルくらいで、その上下の間隔は向かって右半が左半よりも広がっていて、右半の広い方の間隔は写真面で約〇・五センチメートルであるから、実際にはそれよりも少し大きかったとみられる。下のBは左右の長さが約一・六センチメートルくらいで、その左半は細くなり、中央は広がり、右半は又狭くなっている。中央の広がり部分の上下の間隔は写真面では約〇・六センチメートルにみえるが、実際にはそれよりも大きかったとみられる。そしてAとBの間には損傷のない部分が残っている。Bの向かって左側にほとんど接続してDがあり、その左右間の長さは約二・〇センチメートルくらいにみえ、その左半は右半よりも上下の間隔が広がっている。Dの上にCがあり、大きさは、半ごま粒大というより大きく、半米粒大である。CとDの間にも損傷のない部分が残っている。Dの下にEがあり、小さな表皮剥脱群が向かって左上から右下の方に点々と並んだ形をしており、その間隔は一・七センチメートルくらいにみえる。以上のとおりである。

ところで、太田鑑定書(二)において、左胸部の革皮様化した表皮剥脱の形状を模式図に表しているが、その図は鈴木鑑定書添付の写真と対比してみると形態が異なっているうえ、大きさを表す数値についても、A、Bの上下二つの革皮様化を併せて、〇・七×一・〇センチメートルと理解しており、判断対象の把握に不正確な点が認められ、したがって、同鑑定書の実験において粘土に生じた凹みの形状及びその大きさと前記革皮様化の模式図(この外に被害者の胸部の写真も参照しているが)の形状及びその大きさとを比較して、これらが合致しないといっても、この不合致にそれほど大きな重要性をもたせることはできないというべきである。

又、上田鑑定書(一)も、左胸部損傷図を掲げ、Eの損傷部はその左右の線状部によってコの字形に囲まれているとし、このようなコの字形は凶器の特徴を示しており、本件石ではできないとしているが、鈴木証言(二)によると、そのような形態をつくる左右の線状部の存在を否定しているうえ、牧角鑑定書に添付してある被害者の胸部損傷の拡大写真をみてもコの字形線状部は認められず、上田鑑定書(一)は、損傷の形態把握に不正確な点があるといわざるを得ない。

(2) 次に、損傷の性状について検討する。

鈴木鑑定書によると、A、Bの損傷は表皮剥脱を伴っており、その方向は左方(つまり、向かって右方)に向かうとしているが、これに対して、牧角鑑定書及び牧角証言は、鈴木鑑定書添付写真の拡大写真を観察することによって、Bの損傷の向かって右上隅に小表皮片の残存が認められる以外に、向かって左下隅にも表皮片が残存しているから、鈍体の接触方向は被害者の左胸部に対しほぼ前方から後方へ向かう形で強く作用し、鈍体が皮膚面から離れるときにわずかなずれ動きがあったと推定している。しかし、牧角証言調書添付の写真2を見ても表皮片の残存が明瞭に確認できないうえ、写真観察によって右のような推定をなし得るかどうか疑わしいといわなければならず、鈴木鑑定書の記載どおり、A、Bの表皮剥脱の方向は向かって右方に向かっていたとみるべきである。

(二) 胸部損傷の成傷機転及び成傷用器について

(1) まず胸部外表の損傷について検討する。

鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)によると、本件石(そのうち特に、太田鑑定書(二)添付写真のC点(一番尖っている。)による可能性が一番大きい。)が第四肋間に押し込まれ、第四、第五肋骨と本件石との間で表皮がはさまれてこすれ、A、Bの革皮様化ができたと述べるが、A、Bの間には損傷のない部分が残っているのであって、この部分は、右の考え方からすれば、石の尖端が当たるところで、最も深く押し込まれ、したがって強い力が加わっているところであるから何らかの損傷がなければならないのに、これが認められないことからすると、このような成傷機転によるものかどうか疑問があるといわなければならない。

又、牧角鑑定書及び牧角証言によると、本件石の前記C点による損傷の可能性を否定したうえ、本件石を粘土面に打ちつける実験によってできた圧痕と胸部外表の損傷形態とを比較することにより、本件石の凹みのある部分で胸部外表の損傷はできると述べているが、右粘土実験の結果をみると、粘土上の圧痕のうち本件石の凹部によるものは、種々の形態のものが存するものの、その特徴として、本件胸部損傷のA、Bに相当するものについてみると、AとBに相当するものが一部はつながりその部分を基点として約六〇度くらいの角度で方向を別にしているか、つながっていないにしても接近していて、その部分から、やはり六〇度くらいの角度で異なった方向に二つに分れていることが認められ、右実験による圧痕と本件胸部外表の損傷とはその形態がかなり異なっているというべきで、牧角証言が述べるような、油粘土と、皮膚、皮下組織の抵抗性、弾力性、肋骨の硬度等の条件の違いを考慮しても、本件石の凹み部分で胸部外表の損傷ができたとすることは相当でない。

(2) 次に、肋間筋の穿孔部及び肺実質部の損傷について検討する。

鈴木鑑定書によると、左乳嘴下方の革皮様化の内部は表皮と脂肪層を残すだけで筋肉は挫滅し、第四肋間で胸骨左縁から三・五センチメートルの部分より第四肋間に沿って左上方に約四センチメートルの範囲で肋間筋が消失し肋膜腔に穿孔していたことが認められ、左肺上葉の前下縁及び下葉の後下縁に濃赤紫色の膨大部があったことは、先に認定したとおりである。

まず、肋間筋の穿孔部につき、井上鑑定書は、肋間筋等の組織の崩壊は、表皮剥脱を生じた際に侵入した嫌気性の有芽胞菌の作用による組織の分解消化に基く死後変化であるとするが、上田政雄作成の昭和五一年一一月三一日付鑑定書が指摘するとおり、凶器である石に付着しているのは土中にみられる有芽胞菌がその起源であるが、その場合、土中の芽胞が本件のように環境温度が一〇度以下と推定される条件下において発芽し分裂増殖し、毒素を形成し、この毒素によって筋組織や皮下組織が融解することは考えられないから、この見解は採り得ないというべきである。

鈴木検調(一)、鈴木証言(二)、鈴木意見書、牧角鑑定書、牧角意見書を総合すると、肋間筋の穿孔部についての同人らの見解は、鈍体(本件石はこれに適合する。)の打撲的衝撃と、これによる第四肋間の異常な離開に基く肋間筋の過伸展によって、これが断裂し肋間筋の穿孔が生じたとするものであり、又、肺実質部の損傷については、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)は、石が第四肋間を押し広げてその先端が肺実質部に直接触れることなく介達的に力が加わったことによるとし、牧角鑑定書及び牧角証言は、左胸部に加わった鈍体の打撲的衝撃により、胸廓が急激に、相当な深さまで圧し下げられることによって肺実質部に圧挫的損傷が生じて出血巣が形成されたとしている。そして、これらの見解の前提として、鈴木検調(一)及び鈴木証言(二)は、幼児の肋骨は弾力性があるので、本件石によって肋間筋が断裂されるほど押し広げられることは可能であり、そのような場合でも、肋骨々折とか骨膜の損傷などを生じることなく筋肉のみ断裂することも十分考えられると供述し、牧角鑑定書は、本件の被害者は、六歳三か月の幼児でその肋骨は成人のそれよりもはるかに弾力性に富み柔軟であったから、左胸部に強い打撲的衝撃を受けた際、肋骨々折を起こすことなく胸廓が急激に圧し下げられることは十分可能であったとし、その参考例としてモリッツの「外傷の病理学」から、「実験的に子供の死体の胸廓を圧し縮めてみると、しばしば、どの肋骨も骨折することなしに、胸骨を脊髄まで圧し下げることが可能である。」との記載を引用している。

そして、幼児肋骨の柔軟性に関して、検察官から、欧文、邦文の法医学関係の各種文献(抜すいの写)及び西丸與一作成の捜査関係事項照会に対する回答書が当審において提出されたが、これらによると、一般的に、小児では胸廓が弾力性、柔軟性に富むために打撃を受けても肋骨々折を生ずることはまれであるし、小児の骨膜は厚く弾力性があるということはいい得る。しかしながら、モリッツの「外傷の病理学」の事例は、何によって圧し縮めたのか(手かその他の器具か、手としても指か手掌か)、その圧し縮め方の程度(急激にか、ゆるやかにか)等の具体的条件が不明であって、これを本件にあてはめて論じるのは相当でない。又、右各文献等で掲げられている事例は、いずれも、いかなる方法による打撃であったのか明らかでないうえ、その事例をひろいあげてみると、空手チョップ、墜落、転落、鉄道事故、交通事故、けんかであって、攻撃面が広い場合である。空手チョップは比較的攻撃面が狭いかもしれないが、それでも一定の幅と長さをもっているし、攻撃物体自体が柔らかく本件石の尖端とは異なっている。墜落や転落の場合は攻撃面が地面であって、平らで広いし、鉄道事故や交通事故も打撃面は電車や自動車の前部で幅広いといえる。けんかの場合は転倒とかげんこつ等によると思われるが、それも転倒の場合は攻撃面が広く、げんこつの場合は本件石のように固くはない。これに対して、本件石の前記C点(鈴木完夫の見解)や凹みのある部分(牧角三郎の見解)は狭く限局されており、しかも極めて固いものであって、右の事例とは攻撃物体の性質を異にしている。更に、本件の場合は、胸部全体に損傷を与えたというのではなく、損傷が第四肋間部という一個所に集中しているのであって、しかも、鈴木検調(一)及び牧角鑑定書によると、肋間筋が断裂し肺に損傷を与えたのは本件石が第四肋間に押し込まれたことによると想定しているのであるから、このようなことが起こるためには、まず、本件石が、表皮等の組織を介し第四、第五肋骨に突き当たってこれを押し下げ、最大幅が約一・二センチメートルしかない第四肋間(太田証言)を押し開き、第四肋骨を上へ、第五肋骨を下へ押し広げる一方、肋間筋は、第四肋間の離開によって上下に伸展したうえ本件石による前後の打力によって押し下げられ、その結果弾性限界を越えて断裂し、その後も石は更に深く入って肋間を押し開いて肺に損傷を与えたということになる。そこで、これらを、第四、第五肋骨に加わった力という観点からみてみると、その力は、本件石が突き当たった際の衝撃力、押し下げ及び上下への押し開きの力のほか、第四肋間筋が断裂するほどの上下及び前後の各伸展を支える抵抗力等があり、しかもこれらが一気に加わったことになるのである。このような力が本件石によって第四、第五肋骨に加わり、なおかつ骨折や骨膜の損傷がないということの説明は、検察官提出の前記各文献や鈴木検調(一)及び牧角鑑定書等をもってしてもできていないといわざるを得ない。そして、骨膜の損傷については、鈴木意見書及び牧角補充意見書は、本件の場合、凶器が直接肋骨や骨膜に作用しておらず、中間に弾力性のある皮膚、脂肪層、筋肉層が介在しているから、本件石による強い打撃を受けても、肉眼で認識し得るような骨膜の損傷はない旨述べているが、鈴木鑑定書によると、革皮様化の内部は表皮と脂肪層を残すのみで筋肉は挫滅しており、しかも表皮は本件石によって伸展され薄くなっているのであるから、本件石によって前記のような力を受け、肋骨や骨膜に異常が認められなかったというのは理解し難いといわなければならない。

又、牧角鑑定書によると、肺実質部の出血巣が形成されるためには鈍体の打撲的衝撃により胸廓が急激に、相当な深さまで圧し下げられることが前提となっているが、前述したとおり、左胸部外表のA、Bの表皮剥脱の方向は向かって右方に向かっており、このことは胸部に作用した力の方向を示すものとみられるところ、この場合の胸部に加わる力の強さは、前後の方向に作用する場合に比べて加わる力が比較的弱いと思われるうえ、方向も胸廓を圧し下げるにはややずれていることからすると、同鑑定書の見解は、左胸部外表の損傷形状とも符合しないものといわざるを得ない。

以上検討してきたところからすれば、鈴木検調(一)及び牧角鑑定書は、本件石が表皮等を介して第四肋間に押し込まれ、その打撲的衝撃と第四肋間の離開による肋間筋の過伸展によってこれが断裂したとするのであるが、太田鑑定書(二)及び太田証言が、胸廓の一部模型を作りその第四肋間に石膏模型石の先端部分を当てる実験を行ったうえで指摘するように、肋間の表層(浅層)は本件石によって挫滅され得る可能性があるが、肋間筋等の下層(深層)まではその影響を受けないし、もし肋間筋が断裂する等下層に損傷を生ずるほど深く、本件石が最大幅約一・二センチメートルしかない第四肋間に押し込まれた場合(もちろん表皮等の組織を介してである。)は、前述のとおり、一般的にはいくら幼児肋骨に柔軟性があるといっても、第四、第五肋骨は挫傷を受けることになるし、仮りに柔軟性のため肋骨々折を生じないで曲ったりすることがあるとしても、本件石の形状からして、第四肋骨下縁及び第五肋骨上縁の部分の骨膜に部分的な損傷を与えることは避けられないというべきであるから、本件のように肋骨や骨膜に損傷を伴わないで肋間筋に穿孔が生ずる等下層に損傷を生じさせることは、本件石ではあり得ない疑いが非常に濃いということができる。又、太田証言も指摘するとおり、請求人の自白にあるように、約四二〇グラムもある本件石で六歳の女児の裸の胸部を殴打した場合、その作用は、たとえ肋間の下層には達しないとしても、肋間の表層には当然及ぶとみられるから、少なくとも肋骨をとりまく骨膜に何らかの損傷を与えることは否定できないと思われるのに、骨膜の表面にも異常が認められなかったというのであるから、外力の程度は極めて弱かったというべきであり、本件石で二、三回或いは数回も力一杯殴りつけたとする請求人の自白は、この点においても、信用性、真実性に疑念が抱かれる。

四  本件石発見の経緯について

1  証人相田兵市の原第一審第四回公判における供述、原第一審で取り調べられた請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付及び同年六月一日付各供述調書、司法警察員作成の同年六月一日付実況見分調書等によると、捜査当局としては石で被害者の胸部を殴ったということは全然考えていなかったが、同年五月三一日、請求人が、石で殴った、使った石は投げはしないから近所にあるだろう、と供述するので、同年六月一日実況見分したところ、犯行現場付近は粘土質で、死体のあったところを中心として半径三メートル以内には本件石のほか、下端約三分の一くらい土中に埋まった石一個があったのみであり、本件石を押収後島田市警察署で取調べの際請求人に示したところ、この石で被害者の左胸部を殴打したことを認めた、というのであるが、これに対して、弁護人は、抗告審において、検察官が一たん取調べ請求し後に撤回した石沢岩吉の検察官に対する昭和五四年七月一三日付供述調書二通の各謄本をあらためて取調べ請求し、又、昭和二九年三月一四日付静岡民報の記事(写)を提出したうえ、捜査当局は、請求人の逮捕よりはるか以前の死体発見後に本件石を発見、押収し、これを左胸部の成傷用器と判断していたのであるから、被害者の左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石で殴打したことによるものであることが判明したから自白は信用できる旨の判断は誤りであるし、又、捜査当局は、昭和二九年六月一日の実況見分に先立ち、既に押収済みの石を現場に運び、あたかも同日に初めて発見されたかのように偽装した疑いがある旨主張する。

2  右に掲記した石沢岩吉の供述調書二通の各謄本は、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、新規性のある証拠ということができるし、静岡民報の記事(写)も、原第一審判決確定以後本件再審請求の抗告審において提出されたもので、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、これも新規性のある証拠ということができる(以上の各供述調書謄本及び新聞記事(写)を、以下「本件石発見の経緯に関する新証拠」ともいう。)。

又、当審は、右各供述調書及び静岡民報の記事の趣旨及び内容を明らかにするため、石沢岩吉の証人尋問を実施した(以下「石沢証言」という。)。

3  本件石発見の経緯に関する新証拠のうち、石沢岩吉の検察官に対する昭和五四年七月一三日付(六枚綴り)供述調書謄本(以下「石沢検調」という。)によると、

同人は、本件発生当時、静岡民報島田通信部の記者をしており、被害者の死体を発見した現場で死体の状況を見た。死体の頭の左横五〇ないし六〇センチ離れたところに大人の握り拳で握れる程度の長さ約一〇センチ、直径にすれば四センチないし五センチの楕円形の石一個が落ちていた。その翌日か翌々日の正午前、島田署の刑事部屋へ入っていったところ、机の上に石が一個置いてあり、それが現場で見た石と似ているので聞いたら、この石が凶器だと教えてくれた。その刑事の名前は忘れた、

というものであり、

昭和二九年三月一四日付静岡民報の記事(写)によると、

「久子ちゃん死体で発見――素裸に暴行の跡」との見出しの記事中に、「結局死因は出血によるものと断定され、犯人は暴行を目的とした変質者の犯行とみられ、ヒタイと左胸部の打撲傷は石で打たれたもの、顔の傷は野ねずみにかじられたものであることも判明した。」

との記載があり、

石沢証言によると、

石沢検調は当時の記憶のままを録取されており、間違いない。前記の記事は自分が書いたもので、一部デスクの手が入っている、

旨供述している。

4  そこで、まず、石沢検調及び石沢証言の内容について検討する。

当審において検察官から提出された昭和二九年六月三日付静岡民報の記事(写)によると、同新聞は、「殺害に使った石発見」「赤堀もこれを確認」との見出しで「容疑者赤堀政夫の自供により、一日午後……犯行現場の榛原郡初倉村湯日地内地獄沢付近で赤堀が久子ちゃんを暴行した後、岩石で殴り殺したという手の平大の石を発見、赤堀に見せたところ、同人はこれを確認した。これによって物的証拠が一つ増えたわけである。」と報道し、かなり大きく、形態が明瞭に判別し得る本件石の写真も載せている。石沢証言によれば、右の記事も自分が書いたというのであるが、石沢検調及び石沢証言によると、同人は、三月一三日の死体発見時に現場で、長さ約一〇センチ、直径にすれば四センチないし五センチの楕円形の石を見ており、その翌日か翌々日に刑事部屋でこれと似た石について、刑事から、これが凶器だと教えられたというのであるから、容易に記憶を喚起し、捜査当局が報道機関に発表した凶器としての本件石と、自分が死体発見現場で見た石、或いは刑事部屋で凶器だと教えられた石とが同じような物かどうか判別し得たはずであるし、現に石沢証言によれば、これらが似ている気がしたというのであるから、そうであれば、捜査当局は、請求人の逮捕よりはるか前に本件石を発見、押収しておきながら、請求人の自白によって初めて本件石を発見したかのように仮装した疑いがあることになり、新聞記者としての立場からすれば、当然このような点を見逃すはずもなく、捜査当局に確認して記事にするなりして何らかの対応をとるはずであると考えられるのに、そのようなことがなされないまま前記のような内容の記事になっているというのは証言内容と符合せず、理解し難いものといわなければならない。この点に関し、石沢証言は、自分が石を見てから警察が発表した日までは何か月か経過しているから、それほど不審に思わなかった旨説明するが、請求人の逮捕後その自供によって本件石が発見されたという警察の発表と、その二か月余り前に刑事からこれと似た石を凶器だと教えられていたという事実とは、相容れない事柄であって、二か月余り日時が経過したから不審に思われなくなるという性質のものではあり得ない。又、同じく右の点に関して、同証言によると、「捜査本部の発表を素直に筆にとったわけで、前に凶器だという刑事との受け答えのあった時期のことを忘れていたか、無視したかどちらかだと思う。」とか、「警察が前に見つけている石をあたかも自供によって発見されたかのように工作していることに気付くのではないか。」との問に対して、「自分の頭の回転が悪かったので気付かなかった。」等と説明しているが、同人が当時既に静岡民報の新聞記者として四年くらいの実績を積んでおり、中外報知という新聞社から静岡民報に移ったきっかけが、昭和二五年に焼津市内で「人間として見捨ててはならないような事件」に遭遇し、それを記事にしたことによる、という経歴を有していたことに照らすと、前記のような人権上重大な問題点を含んでいる事柄について、忘れるとか、無視するとか、頭の回転が悪くて気付かなかった等という説明は合理性を有するものとはいい難い。更に、石沢証言によると、石を見たという刑事部屋の状況について、「自分が石沢検調で刑事部屋といっているのは刑事室と同じで、一階の大部屋である。刑事室は床が板で、土足で出入りできて畳ではなかった。その前は畳だったが改造して座り机は置いてなかった。石を見たのは一番奥の机の上だった。それが団長のデスクと思うがその上にあった。団長というのは捜査主任である。死体を現場で見てから翌日か翌々日、刑事室に入った時にその石を見た。」旨供述しているが、当審において検察官から提出された斉藤照成の検察官に対する供述調書謄本によると、本件の捜査当時、島田市警察署の刑事室は、畳の部屋に座卓が置かれており、同室は昭和二九年一〇月二八日に改造が始められ、同年一一月二日に完成し、この時初めて床式立机となったことが認められるし、又、同じく当審において検察官から提出された「昭和二九年七月起県中部関係国有財産譲渡綴会計課」との表題の資料(当審昭和六〇年押第八二号の二)中の昭和二九年七月一日付静岡県警察本部長江口俊男作成名義の東海財務局長あて「警察用国有財産の無償譲渡について」と題する書面は、国家地方警察が廃止されるに伴い、国有財産であった島田市警察署の建物を静岡県知事へ無償譲渡する旨の協議資料であり、これに当該物件を示すものとして「島田警察署(旧志太地区島田警部補派出所)平面配置図」と題する図面が添付されているが、同図面によれば、同日時点での島田警察署一階の刑事室の構造は畳敷き和室であったことが認められる。石沢証言が、刑事室で石を見た状況として述べている事項は、話をした相手の刑事が誰かも特定しないし、会話の前後の脈絡もないものであるが、その中で具体性のあるのは、石を見た際のその石が置かれていた机と床の状況であるのに、これが客観的事実と合致しないということは、同証言の信用性に影響を及ぼすものというべきである。加えて、石沢岩吉は、山田勘太郎弁護士に対する昭和三九年五月三〇日付供述調書の中で、「死体発見の現場に石はなかった。小さな石は二つ三つあったと思うが、それは手の中に握れる程度のものであった。」と述べているのに、石沢検調によると、前記のとおり、死体発見現場で被害者の頭の左横五〇ないし六〇センチ離れたところに大人の握り拳で握れる程度の長さ約一〇センチ、直径にすれば四センチないし五センチの楕円形の石一個が落ちていた、と供述しているのであって、その内容は正反対であり、しかもそのような単純で誤解の恐れがあまり考えられない事項についてなにゆえに供述が変遷したのか、その理由は説明されておらず、同人の供述の一般的な信用性に問題があるものといわなければならない。

次に、前掲の昭和二九年三月一四日付静岡民報の記事(写)によると、左胸部の打撲傷は石で打たれたものであることが判明した旨の記載があり、これによれば、捜査当局はこの時点ですでに左胸部の成傷用器を石であると判断し、報道機関にその旨発表したために右のような記事になったのではないかとの疑いが生じるかもしれない。しかしながら、当審において検察官から提出された同日付の他紙の記事(写)によると、毎日新聞は、「死体解剖は鈴木技官執刀のもとに午後一時から現場付近の大井川堤防で行った結果、犯行は誘かいされた十日夕刻、暴行を受け、胸、顔、首に外傷はあるが、絞殺の形跡はなく死因は暴行による出血死と断定された。」とあり、読売新聞は、「この日(三月一三日)国警県本部金子刑事部長、佐野強力係長、鑑識課鈴木技官一行六名は午前一一時現地に到着、凶行現場の検証を行なったうえ久子ちゃんの死体を現場付近で解剖した結果、①犯行は誘かい(十日)当日死体発見現場で行われた②死因は暴行による出血死③胸とミケンに外傷(内出血)があるが、これは致命傷ではない、とわかり……」とあり、朝日新聞は、「殺された久子ちゃんの解剖は十三日午後二時から地獄橋下流約五十メートルのところで金子国警県本部刑事部長、同佐野強力犯係長らが立会い、鈴木技官が解剖を行い同五時金子刑事部長から解剖結果が発表された。それによると死因は暴行による出血のためで、死亡時間は十日夕方と推定された。このほか首を絞めた形跡はあるが、跡は浅く顔や胸にも内出血を認められるがいずれも致命傷になっていない。」とあり、静岡新聞によると、「解剖に付された結果、死の原因は犯行が行われた当日十日夕刻ごろ出血多量によるものとみられる、眉間、胸部ほか数ヵ所の傷は致命傷でなく左頬は野鼠の被害によるものと発表された。」とあり、産業経済新聞によると、「解剖の結果絞殺の跡はなく、死因は暴行による出血多量による。……死体の両足、左頬骨、左肋骨付近は石で殴られたように紫色となって落くぼみ殺人鬼の思うままになったであろう凶行当時をまざまざとみせつけられたような惨虐死体となっていた。」とあり、警察の発表に関するこれらの記事の内容は、いずれも共通し、石が凶器であるという記載は一切みられないし、又、産業経済新聞に、「左肋骨付近は石で殴られたように」との記載があるものの、これは推測的な書き方であって、記事の体裁、前後の文脈からいっても警察の発表に基いた内容でないことは明らかである(なお、右記事を書いた産業経済新聞の記者は、検察官及び弁護人の各調査の結果松井寅男であることが判明したが、同人は昭和五五年一月二一日に死亡しているため取り調べられなかった。)から、右の時点で、捜査本部が左胸部の凶器について石を推定し、これを報道機関に発表したことはないと認めるのが相当である。この点に関し、石沢証言は、三月一四日付の記事に、ヒタイと左胸部の打撲傷は石で打たれたものと判明したと書いた根拠につき、「捜査本部の発表と自分が現実に見たものとを多分織り混ぜていると思う。捜査本部が、はっきり発表したという記憶はない。」としているが、前記認定と右の記事、石沢証言の右の説明を総合すると、三月一四日付の右の記事は、石沢岩吉が現場で見た死体の状況から自分で左胸部の打撲傷の成傷用器を推測して書いたものとの疑いが濃厚であるといわなければならず、静岡民報の三月一四日付の前記記事をもって、当時既に捜査本部が被害者の左胸部の成傷用器を石であると判断していた裏付けとすることはできない。

加えて、昭和二九年三月一四日付記事において、産業経済新聞を除く主要紙は、胸部の成傷用器について何も報道していないのに、石沢の静岡民報の記事だけ、ヒタイと左胸部の打撲傷は石で打たれたものと判明した、と書いているのであるから、もし、死体発見の翌日か翌々日ころにこれを裏付ける証拠品である石を現認し、刑事から凶器であるとの言質を得たのであれば、これは正に同紙の特種であり、記事にならないはずがないと考えられるのに、そのような記事は存していない。

以上のとおり、石沢検調及び石沢証言は、その内容自体において非合理で理解し難い点があるうえ、客観的事実と合致しない点もあるほか、三月一四日付の静岡民報の記事が石沢検調及び石沢証言を裏付けるに足りる証拠でない等の諸事情を総合すると、本件石発見の経緯に関する新証拠は、被害者の左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石によるものであることが判明した、とする確定判決の認定が誤りで、本件石が請求人の自供以前に発見され、検証の際に捜査当局の作為が行われてこれが採取された、との疑いを生じさせるような証拠としての明白性は認められない。

もっとも、すでに、「胸部損傷の成傷用器」の項で述べたところから明らかなように、新証拠によって本件石が被害者の胸部損傷の成傷用器として適合しない疑いがでてきたうえ、胸部損傷の状況が自白の内容と符合しない疑いもあるのであるから、確定判決のように、左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石であることが判明したとはいえないし、かつ、次の項で述べるように、本件石について、当時、血液その他リンパ液等体液が付着しているか否かの鑑定がなされた形跡が窺われないから、客観的証拠による裏付けを欠いているというべきであり、したがって、確定判決のいうところをもって、自白の信用性を担保するいわゆる「秘密の暴露」にあたるものとすることはできないというべきである。

五  本件石に血液、リンパ液その他の体液付着の有無について

1  確定判決においては、本件石が左胸部の成傷用器とされているが、前述のとおり、本件石では肋間の表層の挫滅はあり得ても、肋骨や骨膜の損傷を伴わないで肋間筋に穿孔が生ずる等下層に損傷を生じさせることはあり得ない疑いが非常に濃いうえ、骨膜の表面に異常が認められないのに本件石で二、三回或いは数回も力一杯殴りつけたとする請求人の自白は信用性、真実性に疑念があることからすると、本件石をそのまま左胸部の成傷用器としてよいか否か疑問が残るところであって、差戻決定も本件石に血液、リンパ液その他の体液が付着していたかどうか明確でないとしてこれに関する事実調べの必要性を説示していることに鑑み、当審において、「本件石に人の血液及びリンパ液などの体液付着の有無及び付着状況。若し血液等が付着しているとすればその血液型」を鑑定事項として、鑑定人西丸與一に鑑定を命じた。

2  鑑定人西丸與一は、昭和五九年八月六日付鑑定書(以下「西丸鑑定書」という。)及び同年一一月一三日付鑑定書補遺(以下「西丸鑑定書補遺」という。)を当審に提出したが、これらは、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、いずれも新規性のある証拠ということができる。

又、当審は、西丸鑑定書及び西丸鑑定書補遺の趣旨及び内容を明らかにするため西丸與一を証人として尋問した(以下「西丸証言」という。)。

3  まず、西丸鑑定書及び西丸証言によると、

「(一)右鑑定においては、主として本件石の変色部分四個所について検査を行い(ただし、ルミノール反応検査は全体について行う。)、本件石に貼付してあるラベル部分の検査は行っていない。主として本件石の変色部分について検査を行ったのは、鑑定人の経験からして何も色のついていないところから反応が出たということがないから、あえて非変色部分は行わなかったことによる。(二)本件石の変色部分四個所のうち変色程度の強い二個所について、ベンチヂン法を行ったところ弱陽性であったが、次にロイコマラカイトグリーン法を行ったところ陰性であった。ベンチヂン法は鋭敏度は高いが特異性が弱く血液だけでなく塩分にも反応する。ロイコマラカイトグリーン法は鋭敏度ではベンチヂン法に劣るが血液(ヒトも動物も)には非常に特異的に反応するため、ロイコマラカイトグリーン法で陰性であった以上血痕である可能性は少ない。(三)次に、抗ヒトヘモグロビン血清を使用し、変色部分四個所について、顕微沈降反応法とカウンター免疫電気泳動法を行ったが、いずれも陰性であり、変色部分にはヒト由来の血液が付着していないと判断された。(四)更に、念のため、四個所の変色部分について、ニワトリ抗H血清を用いて、直接血液型検査を行ったところ、血液型を検出することはできなかった。この検査である型について陽性と出ても、それがヒトに由来するのか動物に由来するのかまでは不明であるし、リンパ液でも型があるから、血液由来かリンパ液由来かも不明である。(五)最後に、本件石全体(ラベルは貼付したまま)についてルミノール反応検査を行ったが陰性であった。(六)以上の鑑定結果として、(1)本件石にみられる疑問の変色部からは、ヒト由来の血液は検出されなかった。(2)又、念のため行った血液型検査においても、血液型を検出することはできなかった。(3)なお、血痕予備試験(ベンチヂン法、ロイコマラカイトグリーン法、ルミノール反応検査)からも、本件石に血液を疑わせるものの付着はなかったと判定される。(七)鑑定事項には、血液のほかにリンパ液等の体液付着の有無も入っていたのに血液についてだけしか鑑定しなかったのは、(1)カウンター免疫電気泳動法と顕微沈降反応法はいずれも抗ヒトヘモグロビン血清を用いて行うので、これに反応が出ないということは、血液であれ何であれ、ヒト由来のものが付着していないことになると理解したので、一つやればよいと考えた。(2)石で人間の体を殴打した場合、石に血液が付着しないでリンパ液等の体液だけが付着するということは困難であって、血液が付着すれば体液も付着するから、血液だけの検査でよいと考えたからである。」

としており、前記鑑定においては、本件石の非変色部分についてはルミノール反応検査だけが行われてその他の検査が行われず、又、ラベル部分については全く検査がなされていなかったため、当審は西丸鑑定人に対して、本件石の非変色部分及びラベル部分につき補充して鑑定を行うよう命じ、その結果西丸鑑定書補遺が提出された。

西丸鑑定書補遺及び西丸証言によると、

「(一)ラベルの貼付してあった本件石の表面については五〇個所に区分してベンチヂン法とロイコマラカイトグリーン法を行ったがいずれも陰性であり、ラベルの裏面については四分画し右の二つの検査も行ったがいずれも陰性であった。(二)又、鑑定書補遺には記載されていないが、ラベル以外の非変色部分についても二センチメートル四方に区切ってベンチヂン法とロイコマラカイトグリーン法を行ったがいずれも陰性であった。(三)更に、これも鑑定書補遺には記載されていないが、ラベルの裏面及びラベルの貼付してあった本件石の表面についてもルミノール反応検査を行ったところ、ラベルの裏面で一個所だけ反応が出たところがあったが、ベンチヂン法で陰性であったから、血液以外の何らかの要因(リンパ液といったものは除く。)によるものと思われる。(四)西丸鑑定書及び西丸鑑定書補遺の結果(以下二つを合わせて「西丸鑑定」という。)を総合し、本件石には、血痕の付着はないものと判定される。」

としている。

4  右のとおり、西丸鑑定は、本件石に対する血痕付着の有無を中心になされており、リンパ液等の体液については独自の検査はなされておらず、西丸証言においても、西丸鑑定によって、リンパ液等の体液付着の有無についてまで結論が出せるとは断定していない。

いずれにしても、西丸鑑定によれば、本件石には血痕の付着はなかったわけであるが、これが、もともと付着していなかったのか、一たん付着したものが何らかの原因によって現時点では検出できなくなったのかは不明であって、本件石が領置後三〇年を経過し、証拠品として保管されている間にも多数人が手で触れ、或いは原審において太田伸一郎が鑑定の際、本件石にアルギン酸印象剤を塗って石膏の型をとる措置を施していること等の点を考慮すると後者の可能性も考えられ、西丸証言もその可能性を否定していないことからすると、現時点において本件石に血痕の付着がなかったとしても、そのことによって、本件石が左胸部の成傷用器であることに合理的な疑いが生じたとまでいうことはできない。

しかしながら、これを別の観点からみてみると、そもそも本件のような事案においては、証人相田兵市が原第一審第四回公判において供述するように、捜査官が請求人を逮捕し、その自供を得て初めて被害者の左胸部の傷が本件石によるものであることが判明したというのであるから、これが捜査の結果客観的事実であると確認されれば、いわゆる「秘密の暴露」になり、請求人の自白の信用性を格段に高めることになるのであるから、捜査官としては、まず、請求人を犯行現場に連れて行き請求人に指示させて本件石を押収するのが相当であり、かつ正確を期するゆえんであるのに、証人相田兵市の原第一審第四回公判における供述、原第二審の同証人に対する尋問調書の記載によれば、請求人には犯行現場を見せないほうがよいと思い、捜査段階では一度も現場に連れていかなかった、というのである。そうとすると、なおさら、請求人の自供が客観的事実であるか否かを確認しこれを担保するためには、本件石に、はたして血液等の体液が付着しているか否かの検査、鑑定をすべきであり、これが捜査の常道であると思われるのに、鈴木証言(二)及び当審における弁護人の照会に対する検察官の回答によると、本件石については、静岡県警察本部(科学捜査研究所を含む。)、島田警察署、静岡地方検察庁を対象として残存記録等を鋭意調査し、加えて、鑑定が実施されたとすればその任に当たったことが予想される鈴木完夫(当時国家地方警察静岡県本部鑑識課員)からも事情聴取した結果、血液、リンパ液その他の体液が付着しているか否かについての鑑定を行った事実は窺われず、又、その理由は不明である、というのであるから、極めて不可解といわなければならない。更に、原第一審で取り調べられた司法警察員秋山三郎作成の昭和二九年六月一日付領置調書、司法警察員山下馨作成の同月三日付領置調書及び鈴木完夫作成の昭和二九年六月二九日付鑑定書等によると、本件石が発見押収されたのと同じ日である昭和二九年六月一日に、請求人から、請求人着用の中古鼠色セルジャンパー一枚の任意提出を受け同日これを預置していること、同月三日には曽根一郎から、請求人が犯行当時着用していたとされるチャック付ジャンパー一枚、浅黄色古ズボン一着外三点の任意提出を受け同日これらを領置していること、そして、右の中古鼠色セルジャンパー、チャック付ジャンパー、浅黄色古ズボンの三点については、同月七日付をもって、「血痕付着の有無、付着するとしたら人血か否か、人血であればその血液型、精液付着の有無、付着するとしたらその血液型及び病原菌の有無」をそれぞれ鑑定事項とし、当時の国家地方警察技官医師鈴木完夫に対して鑑定嘱託をなし、同人は同月二九日付で鑑定書を作成していること、右鑑定書によると、前記資料の三点について、ルミノール反応検査やベンチヂン法、或いは抗A、抗B血清を用いて沈降反応を実施する等精細な鑑定を行っていること、をそれぞれ認めることができ、右認定の事実によると、請求人が犯行当時着用していたと思料されるジャンパーやズボンでさえ、請求人の自供を裏付けるために、右認定のような鑑定を実施しているのにかかわらず、もしそれが客観的事実であることが確認されれば、請求人の自白の信用性を格段に高めるいわゆる「秘密の暴露」になるべき請求人の供述を客観的に裏付けることになる本件石についての鑑定が、首肯するに足りる特段の事情も認められないのに、何ゆえ実施された形跡が窺われないのか、ますます不可解の念を強くするものといわなければならない。

いずれにしても、前記検察官の回答によれば、捜査の結果客観的事実と確認されればいわゆる「秘密の暴露」になるという請求人の自供の重要な点について、当然あるべきはずの客観的証拠による裏付けを欠いているものというべきである。

六  大井川の河原の遺留された足跡について

1  まず、請求人が盗んだゴムの半長靴については、原第一審で取り調べられた請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付及び同年六月二日付各供述調書、検察官に対する同月一二日付、同月一三日付、同月一四日付及び同月一五日付各供述調書、請求人の原第一審第一〇回公判における供述並びに請求人作成の昭和三〇年七月三〇日付上申書、原第二審で取り調べられた証人末石敏子及び同末石高之に対する各尋問調書並びに昭和三三年一一月二日実施の検証調書等によると、請求人は、捜査段階において、

本件犯行日より前の昭和二九年三月(具体的な日時については、当初同月三日ころと供述していたのが、その後同月七日と変わり、最終的に、請求人の検察官に対する昭和二九年六月一四日付供述調書において、同月八日となっている。)、興津駅と由比駅の中間くらいにある海岸通りの「お休み所」という看板のある飲食店で、その店の西側の羽目板に台の様なものがあって、その上にほしてある新品同様の黒エナメルのゴム半長靴を盗んだ。犯行日もこれを履き、被害者を連れて大井川の新堤防を下り、河原を川下に向かって歩いた。巾一〇メートルくらいの流れは被害者を背負って横切った。この半長靴は、ゴムの光った半長靴で、踵にいぼ(拍車止)がついており、中に土色の布がはってあって、中底はねずみ色のゴム張のものである。マークや裏の模様は覚えていない。この半長靴はずっと履いていたが、後に、物貰仲間の岡本佐太郎にくれてやった、

旨供述し、公判段階に至ってから、本件犯行は否認したものの、右のゴム半長靴を右の場所で盗んだこと自体は認めており、ただ、その日時が、昭和二九年三月一八日ころである旨供述していること、更に、右のゴム半長靴の被害者末石高之及びその母末石敏子は、

昭和二九年三月にゴム半長靴の盗難にあった。色は光沢のない黒で、一〇文、かば色のような布の中張りがしてあり、底は波形であったと思う。印は三ツ馬だったと思っている。買ったのは盗られた前年の八月ころで稲葉という人に買ってもらった、

旨供述し、加えて、前記検証調書によれば、請求人の供述内容と盗難現場の位置、模様は略々一致していることが、それぞれ認められる。

一方、大井川の河原に残された足跡については、証人相田兵市の原第一審第二回公判における供述、原第一審で取り調べられた司法警察員作成の昭和二九年三月一九日付実況見分調書二通、犯行現場付近の足跡を示す写真六葉、原第二審で取り調べられ押収してある足跡の石膏二個(「明瞭のもの」と「踵のみ明瞭のもの」)、当審において検察官から提出された原第一、二審不提出証拠である司法警察員飯田宙一作成の昭和二九年三月一四日付及び同月一五日付の「足跡採取の状況について報告」と題する各書面の各謄本等によると、昭和二九年三月一四日に、大井川新堤防の北側で発見された犯人や被害者のものと思われた足跡のうち、前記六枚の写真の第五葉目に写っている足跡三個は犯人のものと思われ、歩巾は七八センチメートルであり、このうち形状のくずれていない左足跡一個を石膏により採取した(これが前記「足跡の石膏」のうち「明瞭のもの」)こと、この三個の足跡の南側五〇センチメートル付近に、被害者が履いていたと思われる大人用下駄跡四個が認められ、その歩巾は五〇センチメートルであったこと、同月一五日に、旧堤防南側の砂原に三個、水深一〇センチメートルの浅瀬に三個残された足跡を発見し、そのうち砂原に残された三個のうち一個の右足跡を石膏で採取した(これが前記「足跡の石膏」のうち「踵のみ明瞭のもの」)こと、がそれぞれ認められる。

ところで、原第一審における検察官の冒頭陳述によると、請求人は、昭和二九年三月八日、由比町西倉沢一一三番地末石敏子方でゴム半長靴を窃取し、それまで履いていた白ズック靴と履きかえたうえで、同月一〇日、被害者と共に大井川の河原を歩き、犯行に及んだ、とされていて、その後の立証もこれに沿って行われ、判決がなされていることからすると、確定判決においても、請求人が大井川の河原を歩いたときに履いていたのは、前記窃取にかかるゴム半長靴であったことを前提としているものと推認される。又、確定判決において認定された請求人の犯行前の行動のうち、大井川旧堤防を越え、横井グランドを横切って大井川新堤防に出たあと、更に河原を下流に向かい、旧堤防に登った、との部分を認定した証拠として確定判決が挙示しているものは、請求人の自白調書のほか、証人中野ナツ、同松野みつ、同橋本秀夫、同橋本すえの各目撃供述、裁判所が昭和二九年一二月一五日行った検証調書であるが、原第一審においては、右の各証拠のほか、前掲の、司法警察員相田兵市作成の昭和二九年三月一九日付実況見分調書二通、証人相田兵市、犯行現場付近の足跡を示す写真六葉、右写真を撮影した証人飯田宙一も取り調べられていることに鑑みると、これらの証拠も、確定判決には挙示されてはいないが、前記挙示にかかる証拠を補強し、前記事実認定の実質的な裏付けとなっていることは明らかというべきである。

そうとすれば、確定判決は、大井川の河原に残された足跡は請求人が末石方で窃取してきたゴムの半長靴を履いたうえで印したものであることを前提としているものということができる。

2  弁護人は、抗告審において提出した平沢彌一郎作成の鑑定書(以下「平沢鑑定書」という。)に基き、大井川の河原に残された犯人の足跡(以下「本件足跡」という。)は、請求人以外の者が皮短靴を履いて歩行したのであり、ゴムの半長靴を履いて大井川の河原を歩いたとする請求人の自白及び右の歩行者が請求人であるとする目撃者の供述は虚偽である旨主張する。

3  平沢鑑定書は、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、新規性のある証拠ということができる。

又、当審は、平沢鑑定書の趣旨及び内容を明らかにするため、平沢彌一郎の証人尋問を実施した(以下「平沢証言」という。)。

4  平沢鑑定書の鑑定結果は、次のとおりである。

(一)本件足跡はゴム長靴によるものでなく、かなり履き古したゴム製ヒールの皮短靴である。(二)前記靴を履く人物は身長一六〇センチメートルないし一七〇センチメートルの男性で、O脚、ゆっくりとした歩容で歩く特徴があると推定する。(三)請求人の身長は一五二センチメートルで、足長が短く、足部の特異な形態から足圧の分布が前方にあるため、昭和二九年当時においては、かなり軽敏な歩容のパターンであったと推定する。(四)請求人が約半年前に購入された男性用一〇文のゴム長靴を履いて、本件足跡をつけたと推定することは不可能である。(五)請求人がいかなる靴を履いたかを問わず、本件足跡をつけた人物であると想定することは不可能である。

5  そこで、以下、平沢鑑定書の鑑定結果について、順に検討する。

(一) 鑑定結果(一)について

平沢鑑定書は、種々の根拠に基き、本件足跡をゴム長靴によるものではないとしているので、以下その根拠を個別に検討する。

(1) 第一に、平沢鑑定書は、本件足跡ではヒール部分前部の内側最先端が外側最先端より前方にずれていることが確認され、これはヒールと本体をはり合わせる皮短靴の製法上の基準であって、ゴム長靴の場合は、一つの金型の中にゴムを注入して、ヒールも本体と同時に作るインジェクション方式(型に流し込む方法)によるものがほとんどであるため、このようなずれがないから本件足跡はゴム長靴ではないとしている。

ところが、当審において検察官から提出された加藤一雄外一名編「良いクツの基礎知識」及び捜査関係事項照会に対する月星化成株式会社商品開発第一課の昭和五九年三月七日付回答書及び添付資料によると、我が国でゴム長靴がインジェクション方式により製造されるようになったのは昭和三六年からであって、昭和二九年当時の長靴規格書をみると、底ゴムとヒールが別個に造られてはり合わされており、ヒール前部の内側最先端が外側最先端より前に出ていることが認められるから、この点をもって長靴でないとする根拠にはならない。

(2) 第二に、ゴム長靴なら底面に滑り止めの波型又は山型等の模様があるはずなのに、本件足跡には模様状のデザインの形跡は一切認めることができなかったとしている。

平沢証言によると、同人はこの鑑定にあたり、石膏足跡の実物を見たのは一回だけで、その時間も二〇分ないし三〇分程度であって、その後は、石膏足跡二個の原寸大の写真を拡大鏡で見て右の判断をしたというのであって、立体的な足痕跡を採取した石膏足跡の観察方法として不適当であるし、現に、押収してある足跡の石膏(明瞭のもの)の踏み付け部には平行に走る模様のような痕跡も認められるのである。これに加えて、本件足跡が印象された昭和二九年三月一〇日以後これが採取される同月一四日、一五日までの間に、大井川河原での砂利採取人が仕事を休むほどの雨が降っており(証人松野みつの原第一審第二回公判における供述)、同所が砂地であることを考慮すると、模様の有無の判断はより慎重にすべきであるのに、前記のような方法で判断を下したのは不適切というべきである。

(3) 第三に、平沢鑑定書は、本件足跡の最先端が極めて尖っている点でゴム長靴でないことを最も明確に断定することが可能であるとし、昭和二七年から二九年当時にかけて製造されたゴム長靴について調査した結果、その当時には最先端がこのように極めて尖っているものは製造されていなかったとしている。

しかし、平沢証言によると、昭和二九年当時先端の尖っているゴム長靴が造られていなかったといっても、これは同人が福助シューズ等の靴メーカー関係者の話を聞いて判断したというもので、調査が網羅的でないうえ、その話の内容は鑑定判断を裏付ける資料として保存されていないことに鑑みると、右の事実を前提に結論を下せるかどうか疑問であるといわなければならない。

(4) 第四に、平沢鑑定書は、本件足跡のヒールの形状につき、中央部の凹みが顕著であるのは、全体の重量を軽減するためヒールの中に空洞をつくるいわゆる「ぬすみ」の部分が露呈したからであって、このことからこの靴は長期間履き減らしたかなり古いものであるとしている。

しかし、押収してある足跡の石膏二個をみると、本件足跡のヒールの形状は、馬蹄型であり、ヒールの中央部だけでなく、土踏まずとの境界であるヒールブレストの部分がヒールの他の周囲に比し、一様にへこんでいることが認められる。いくらヒールが履き減らされたところで、土踏まずに接するヒールブレストの部分のみが一様にすり減ることはないのであるから、ヒールは製造当時から馬蹄型をしていたと考えることもできる。したがって、本件足跡のヒールの形状から直ちにヒール内の空洞が履き減らされて露呈したものとするのは相当でない。

以上のとおり、鑑定結果(一)の根拠は必ずしも理由のあるものではないから、本件足跡が皮短靴によるものでゴム長靴によるものではない、とまでいうことはできず、いずれの可能性もあるというべきである。

(二) 鑑定結果(二)について

(1) 身長一六〇センチメートルないし一七〇センチメートルとの推定について

平沢鑑定書及び平沢証言によると、右の推定は、本件足跡を残した者の足長を、足跡の写真及び押収してある足跡の石膏二個の計測値から、約二五・五センチメートルと推定し、日本人の体格標準値(当審において弁護人から提出された馬場和朗「日本人の足部形態に関する統計学的研究」写(久留米医学会雑誌四二巻六号)所収の「足長と身長等との相関統計」による。)と比較して導き出したというものであるが、その前提となる足長自体が、足跡の外長が約二六センチメートルであることだけからの推定にすぎず、例えば、外長二六センチメートルの靴を足長二四センチメートルの者が履いても足跡の外長は同じなわけで、足長の推定にまず飛躍があるし、これに相関係数のそれほど高いともいえない統計をあてはめて身長を推定しても正確な数値が算出される保証はない。

(2) O脚との推定について

平沢鑑定書においては、当初押収してある足跡の石膏二個の踵部の痕圧分布から推定すると二個とも外側より内側にかかっているところから足跡を印した本人はO脚と推定されるとなっていたが、平沢証言の冒頭で、同人はこれをミスプリントとしてX脚に訂正した。ところが、検察官の反対尋問において、押収してある足跡の石膏二個を見せられたうえ、再びO脚と訂正し、立体的な痕跡を主として写真の観察によって判断した手法の誤りを認めた。

そして、そもそも、本件のような河原の砂地では痕圧の偏りは、土地の傾斜、砂地内の構成物の粗密で影響を受けることが考えられるのであるから、前記の足跡の石膏のように連続しない二個の足跡のみから、これを印した者がO脚、X脚の足をしていると推定するのは相当でないというべきである。

(3) 本件足跡を印した者は、ゆっくりとした歩容で歩く特徴があったとの推定について

平沢鑑定書は、正常人男子の歩行では、砂上であれば砂を蹴った痕圧か又は靴底に模様があればその形跡が残存するはずであるとの前提のもとに、本件足跡を原寸大に拡大した写真からは、これらの形跡を一切認めることができないから、背筋を伸ばして極めてゆっくりとした歩容を推定したとするが、この点も、前述のとおり、主として平面的な写真をもとに立体的な石膏足跡の模様の有無を観察していて手法上不適切であり、かつ、昭和二九年三月一〇日以後本件足跡が採取されるまでの間に、大井川の砂利採取人が仕事を休むほどの降雨があったことによる影響を考慮すると、平沢鑑定書のようにいえるかどうか疑問がある。

(三) 鑑定結果(三)について

請求人の身長が一五二センチメートルであり、足圧の分布が前方にあって、昭和二九年当時はかなり軽敏な歩行のパターンであったとの推定については、本件関係証拠の判断上、意義が乏しいというべきである。

(四) 鑑定結果(四)、(五)について

鑑定結果(四)、(五)は、請求人が、約半年前に購入された男性用一〇文のゴム長靴であれ、いかなる靴を履いていたのであれ、本件足跡をつけた人物と推定することは不可能であるとし、その根拠をあげているので、以下検討する。

(1) 平沢証言及び平沢鑑定書によると、鑑定結論に至る根拠の一は、請求人と同じ二二センチメートルの足長を有する成人男子の足首から先のゴム型と、足長二二センチメートルと推定される五〇歳男子の足部骨格の標本を、市販の一〇文半のゴム長靴の底面上に置いて比較したというだけの実験で、皮靴の中にこれらを入れてみたわけでもないのに、本件足跡を皮靴によるものと仮定した場合には請求人にとって靴の長さは十分であっても足幅の点でこれを履いて歩くことはできないという結論を得たというものである。

しかしながら、右のような結論に至るには、本件足跡と請求人の足部とを比較しなければならないのに、右の実験において比較対照されているのは、本件足跡と無関係なゴム長靴の底面と、請求人のものでない、単に足長等が請求人と似ているゴム型や骨格標本にすぎず、鑑定の手法として不適切であるといわなければならない。

(2) 平沢証言及び平沢鑑定書によると、前記鑑定結論に至る根拠の二は、本件足跡をゴム長靴によるものと仮定して、押収してある石膏の足跡及びその写真の計測値から推定した内径値(靴の内側の甲回り)の数値と、請求人の足部の周径値(甲回り)の数値とを比較検討したところ、前者は後者よりも小さくなる、すなわち、抵触する部分があって、そのため請求人にとっては、足跡から推定されるゴム長靴は極めて窮屈で、そのうえ冬物の靴下を履くことを勘案すると、やっと履くことはできてもこれを履いて歩行することは全く不可能であるというのである。

しかしながら、平沢証言によると、足跡から推定したゴム長靴の内径値というのは、「石膏から考え出した数値ということしか申し上げられません。きわめて概算的な、それ以上申し上げられません。石膏から推定したものしか考えられません。」と供述しているように、足跡の石膏からどのように推定したか具体的に述べられておらず、その推定に合理的根拠が存しない恣意的なものといわれてもやむを得ないものであって、このような数値をもとにして、前記のような結論を下すことは極めて不適切であるといわなければならない。

(3) 平沢証言及び平沢鑑定書によると、前記鑑定結論に至る根拠の三は、請求人の足は親指や小指のつけ根付近において横幅が大きいため、靴跡にはその形跡が地面に明らかに痕圧として残るはずであるというものである。

しかしながら、平沢証言によると、これは実験的検証を行ったものではないうえ、長靴は、底面に相当の厚みがあり、足幅の広い者が履いても横に広がるのは足入れ部だけであり、底面で印象される足跡に影響はないとも考えられるのである。

以上のとおり、鑑定結果(四)、(五)の根拠はいずれも薄弱といわなければならない。

右の次第で、平沢鑑定書の鑑定結果はいずれも採用できず、新証拠としての明白性は認められない。

七  死後経過時間について

1  弁護人は、抗告審において提出した助川鑑定書及び船尾忠孝作成の鑑定書(以下「船尾鑑定書」という。)に基き、被害者の死後経過時間は二昼夜以内と推定されるから被害者は昭和二九年三月一〇日以降も生存していたことになり、同月一〇日に本件犯行を行ったとする請求人の自白の信用性はなくなった旨主張する。

2  右各証拠のうち、船尾鑑定書は、原第一審判決確定以後に作成されたもので、かつ、その内容等に照らしてあらたに発見されたものといえるから、新規性のある証拠ということができ、助川鑑定書が新規性のある証拠であることは先に述べたとおりである(以上の各鑑定書を、以下「死後経過時間に関する新証拠」ともいう。)。

3  死後経過時間に関する新証拠のうち、助川鑑定書によると、鈴木鑑定書は、上肢が下肢より死硬が弱いことから死硬が緩解し始めているとして死後三昼夜経過と判断しているが、心筋や立毛筋の死硬が存在し、角膜が瞳孔を透見できる程度の混濁であること、腸管が小指大の太さで膨隆せず、腹腔内に滲出液がないこと、血色素の潤滲もなく死斑は鮮紅色を呈し、腐敗色もないこと等からみて、三月ころにおいても、一昼夜前後と自分なら判断するが、自分が見ていない現場の状況や気候等が死体現象阻止因子として大きく作用したことを重視して、解剖開始時における死後経過時間を二昼夜以内と判断する、としており、船尾鑑定書は、鈴木鑑定書によって認められる死後硬直の程度及び角膜の混濁度、当時の気温及び被害者が小児であること等を考慮し、解剖開始時における死後経過時間を約一日半ないし二日くらいと推測している。

4  旧証拠である鈴木鑑定書は、死後硬直について、硬直は全身の関節に認められるが上肢は下肢よりやや弱く、硬直はすでに解けつつあるとし、鈴木完夫の検察官に対する昭和五四年七月一四日付供述調書謄本によると、同人は、実際に死体に手を触れて硬直状況を検査したうえで、上肢は硬直が解けつつあって下肢も解け始まり、全体的に硬直が解ける時期にきていたということから、死後三昼夜と推定するのが妥当であるとしているのに、助川及び船尾両鑑定書は、このような硬直緩解の具体的状況についての説明がなされないまま結論が出されている。又、角膜の混濁について、鈴木鑑定書は、角膜はともに軽く混濁し瞳孔は左右同大で散大しているとし、助川鑑定書は、このことから、角膜は瞳孔を透見できる程度の混濁であるとの評価を加えて死後一昼夜ないし二昼夜とし、船尾鑑定書は、鈴木鑑定書の右記載から死後一日半ないし二日くらい経過したものと推測している。しかしながら、船尾鑑定書自体が引用する剖検例における死後経過時間と混濁度を対比した表によれば、瞳孔を透見できる中等度混濁の事例で、一三ないし二四時間のものが一三例、二五ないし三六時間が八例、三七ないし四八時間が一〇例、四九ないし六〇時間が二例、六一ないし七二時間が四例、七三時間以上が五例となっており、二日半ないし三日以上経過したものが、四二例中九例と二割余りにも上るのであるから、本件被害者の角膜の混濁状況から鈴木鑑定書の判断を否定するのは失当である。

したがって、死後経過時間に関する新証拠は、いずれも、請求人の自白の真実性に合理的疑いを差し挟むような再審請求証拠としての明白性を具備していない。

八  請求人の自白の任意性、信用性について

1  以上検討してきたところによれば、確定判決が、請求人の自白調書に任意性(確定判決は前記のとおり「任意性」の観点から説示しているが、右説示に照らすと、この点はむしろ供述内容の信用性の問題として検討すべき事項であると思われる。)を認めた有力な証拠のうち、(一)請求人が被害者の死亡前にその胸部を石で殴ったとする犯行順序についての供述が古畑鑑定と一致すること等については、胸部損傷の時期が生前に生じたものとは断定し難く、頸部絞扼以後のものであるとする合理的疑いが残るとし、(二)被害者の左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石で殴打したことによるものであることが判明したとの点については、そもそも本件石では肋骨や骨膜に損傷を伴わないで肋間筋に穿孔が生ずる等下層に損傷を与えることはあり得ない疑いが濃く、本件石が胸部損傷の成傷用器として適合しない疑いがあるうえ、請求人の右供述を裏付けることになる本件石についての鑑定がなされた形跡が窺われず当然あるべきはずの客観的証拠による裏付けを欠いており、いわゆる「秘密の暴露」にあたらない等の問題点が存することが明らかになり、その他、先にも指摘したとおり、陰部損傷の時期が自白と異なり頸部絞扼よりも後ではないかとの疑いがあること、陰部損傷の状況は、請求人の自白のように陰茎を半分くらい挿入しただけにしてはあまりにもその程度がひどく右自白の内容と符合しないこと、又、性交に伴う陰茎の疼痛や損傷については、本件が幼児強姦という特殊な事案であることに鑑みれば、当然右の点に言及されかつ請求人においてもこれを容易に説明できる事柄であるのに、自白調書において説明が欠落していること、胸部損傷については、本件のような重量のある石で六歳の女児の裸の胸部を殴打すれば少なくとも肋骨をとりまく骨膜に何らかの損傷を与えることは否定できないと思われるのに、骨膜の表面にも異常が認められないということは外力の程度が極めて弱かったと考えられるから、本件石で二、三回或いは数回も力一杯殴りつけたとする請求人の自白内容は、胸部損傷の客観的状況に符合しないこと、等数々の疑点が存することに照らすと、請求人の自白調書は再検討をする必要があるものといわなければならない。

2  まず、原第一審において取り調べた関係各証拠によると、請求人が本件犯行を自白するに至った経過は、次のとおりである。

請求人は、本件の容疑者の一人であったが、昭和二九年五月二四日、岐阜県下で職務質問にかかり、翌二五日島田警察署に任意同行されて同年三月一〇日前後の行動について取り調べられ、その間に窃盗の犯行を自白した。同月二五日夕刻から同月二八日朝までの間は不拘束のまま金谷民生寮に寄宿し、同日朝右島田警察署で窃盗罪により通常逮捕され、自白調書を作成されたうえ同月二九日島田区検察庁に送致され、同日勾留された。そして、同月三〇日夜に至り、司法警察員清水初平に対し本件についての最初の自白をなし、同日簡単な自白調書が作成された。翌三一日、本件についての詳細な自白調書が作成され、同年六月一日窃盗罪については釈放のうえ殺人罪等で再逮捕された。同月三日、静岡地方検察庁へ送致され、勾留請求のうえ同日勾留されたが、その後も警察官、検察官に対して詳細な自白をしており、捜査段階においては、本件について初自白以降否認に転ずることなく自白を維持した。

以上のとおりであるが、請求人は、公判段階に至って捜査段階での自白を全面的に翻して本件犯行を否認し、以後一貫して、前記自白が捜査官の誘導、強制等の取調べによるものであり、任意性、信用性がない旨主張しているところ、差戻決定も指摘するとおり、請求人の取調べにあたった捜査官らの原第一審又は原第二審における供述等の関係各証拠に徴しても、明らかに違法とすべき取調べが行われたものとは認め難いが、これまで検討し、述べてきた重要な諸点につき、自白内容と新旧各証拠を総合して認められる客観的状況とが符合しないところがあること等の点に照らすと、請求人が、軽度の精神薄弱者であり、感情的に不安定、過敏で心因反応を起こしやすく、したがって、捜査官の誘導によって暗示にかかりやすい傾向があること等を併せ考慮すると、捜査官による長時間の追及を受け、想像や推測をも交えて、捜査官の想定した状況に迎合する供述をしたのではないかと考えられなくもない。これが直ちに自白の任意性を失わせるか否かはともかくとして、右の事情は、自白の信用性の判断にあたって看過し難いところといわなければならない。

3  確定判決は、請求人の自白調書に信用性を認め得る根拠として、(一)請求人が、昭和二九年五月三〇日夜島田警察署留置場保護室内で、当直副主任であった警察官松本義雄に対し、「大罪を犯してしまいました。」と述べたこと及びそのときの態度(原第一審証人松本義雄の供述)、(二)請求人が、同月三〇日、捜査官清水初平に対し、本件犯行を自白したときの状況(原第一審証人清水初平の供述)、(三)請求人が、同月三一日以降、司法警察員相田兵市に対し、本件犯行を自白したときの態度及び証拠物たる被害者の着衣等を示されて、「もう見せないでくれ。警察署付近で遊んでいる子供の声を聞くとあの子が生き返ってくるような気がしてならない。早く刑務所に送ってくれ。」といって顔色を変えたこと(原第一審第四回公判における証人相田兵市の供述等)、を掲げている。しかしながら、前記のとおり請求人が捜査官に自白するに至った事情、経緯につき請求人の心理的傾向等に関連して前述の事情があったのではないかと考えられなくもないことを考慮すると、取調べ当時請求人に右の言動、態度があったとしても、それをもって直ちに請求人の自白が真実であることの決定的な証左であると断ずることは躊躇されるうえ、そもそもこれらの言動、態度があるからといって、先に指摘した自白内容の重大な疑点等が解消されるものでもない。したがって、これらの重大な疑点を解消させ得ないまま、右の言動、態度をもって、請求人の自白調書(勾留質問調書も含む。)の信用性を肯定する理由とはなし難いものといわなければならない。

4  右のとおり、確定判決の指摘する諸点は、請求人の自白調書の信用性を根拠づける理由としては十分でないうえ、差戻決定も指摘するように、犯行後の足どりに関する請求人の自白調書の中には、明らかに客観的事実に反する供述がある。

例えば、神奈川県大磯地区警察署の警察官であった原第一審証人千田啓及び同山本典太の各供述等によれば、昭和二九年三月一二日夜右警察官らが当直勤務中、管内の大磯町高麗の祠でぼやが発生した旨の通報を受け、現場に駆けつけたところ、一見して浮浪者風である請求人と岡本佐太郎なる者が提灯等を燃やして暖をとったというので、両名を右地区署に連行して取り調べ、いずれも本籍照会等により本人と確認したが、翌朝微罪として釈放した事実が認められる。しかるに、請求人の自白調書には、右の事実に触れた記載が見当たらず、かえって、請求人の検察官に対する昭和二九年六月一五日付(第四回)供述調書によると、同日は日坂から島田方面に戻り、その夜静岡大学島田分校寄宿舎裏の農小屋に泊った、という虚偽の供述をしていることは、同供述が犯行状況に関するものではないにしても、差戻決定が指摘するとおり、請求人の自白調書の真実性に疑問を投ずる一つの徴憑ともなっている。確定判決も、請求人の捜査官に対する供述は、本件犯行日の行動については終始ほぼ一貫しているのに対して、犯行日前後の行動に関する供述は再三変化しており、とりわけ、本件犯行後の行動についての供述は、三月一二日請求人が大磯地区警察署で取調べを受けたという事実と全く相容れないものであることはこれを認めなければならないとしている。

5  右のようにみてくると、これまで検討してきたところも含めて、請求人の自白内容にはその信用性、真実性に不審を抱かせる幾つかの点が指摘されるのであり、このような不審点がありながら、なおも犯行に関する請求人の自白に十分な信用性、真実性があるとするためには、自白が具体的、詳細であるとか、迫真力があるとか或いは請求人を犯人と窺わせるようなその他の言動が存するというだけでは不十分であって、あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたいわゆる「秘密の暴露」が存する等、前述の不審点を克服して有罪の心証を形成できるほど高度の真実性を担保するものがなければならないというべきである。本件においては、先に説示したとおり、被害者の左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石で殴打したことによるものであることが判明したとの点については、いわゆる「秘密の暴露」にあたらないし、その他に自白の真実性の吟味にたえ得る具体的な事実についての請求人の「秘密の暴露」にあたる供述が存する等高度の真実性を担保するものはみあたらないというべきである。

そうだとすると、確定判決が、請求人の本件犯行に関する供述の内容や態度に、誇張されたところはあるにせよ、真に迫ったものが見受けられるから請求人の供述が捜査官の暗示により虚構されたものと認めるのは困難であって、特に印象の強い、又、日常生活の連鎖から離れた本件犯行についての供述は、明確な記憶に基く信用性の高いものである旨判示したのは、たやすく支持し難いところといわなければならない。

九  請求人のアリバイについて

1  請求人のアリバイの主張は、要するに、「請求人は、昭和二九年三月三日島田市内の実兄一雄宅を出、職を探しながら東に向かった。三日の夜は東田子の浦のお宮、四日夜は沼津市郊外の智方神社、五日夜は小田原市鴨の宮海岸の物置小屋で泊まった。六日は鴨の宮から平塚駅まで歩き、そこから湘南電車で東京へ行き、東京駅で省線に乗り換えて上野駅に行き、その日は同所で泊った。七日、八日は上野駅、神田周辺におり、九日夜は神田常盤公園に泊まった。犯行当日である一〇日は朝常盤公園を出発し、東京駅、品川、横浜駅を経て、同日夜は横浜市保土ヶ谷区内の外川神社に泊まった。その後西下し一二日夜は大磯地区警察署に泊まった。」というものであり、右に関する証拠として弁護人から、原審において、芦田孝一作成の外川神社周辺見取図一枚及び同人撮影の外川神社周辺の写真一一葉、農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月及び三月各気象表(写)、東京弁護士会長宛の照会請求書写及び東京弁護士会長作成の昭和四五年八月一三日付報告書、山城多三郎撮影にかかる昭和二九年五月当時の金谷民生寮及び同月二七日当時の同寮における請求人の各写真各一枚、山城多三郎及び草山テイの弁護士に対する各供述録取書、金谷民生寮の「一時保護取扱記録」写、昭和二九年三月一日発行の時刻表及び運賃表の写、請求人の小鍛治格宛封書写、仙石原観測所の昭和二九年三月の月表写、相馬誠一撮影の「パンくずをもらったと思われる家」付近の写真二葉の各写、気象庁所管の観測原簿拡大複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)、日本臨床心理学会編集の臨床心理学研究一四巻二号並びに日本臨床心理学会総会代表作成の「赤堀裁判とその精神鑑定書における差別性についての意見書」と題する書面が提出され、抗告審においては、昭和二九年三月七日付朝日新聞夕刊、同日付毎日新聞朝刊、同日付日本経済新聞朝刊の各記事写が提出された。

2  ところで、確定判決は、請求人のアリバイがあるとの主張に対して、「一方に、請求人のアリバイに関する供述とこれを裏付けるために提出された各証拠があり、他方に昭和二九年三月七日ないし九日ころ請求人と島田市内又はその近郊で会ったという松浦武志、小山睦子の各証言とこれを裏付けるために提出された各証拠があるところ、両者を対比し、松浦武志、小山睦子の各証言は高度の信用力があるが、請求人のアリバイに関する供述は、供述内容自体に不自然なものがあり、請求人の供述した日時に結び付くものが乏しく、同年三月七日ないし一〇日ころ島田市又はその近郊にいなかったものと断定し去るわけにはいかない。」として、請求人のアリバイの主張を排斥している。

3  弁護人は、前記のとおり、アリバイに関する新証拠として種々のものを提出しているが、請求人の自白調書に関するこれまでの説示の結果に鑑み、アリバイに関する証拠については、以下、主要と思われるものについてだけ判断する。

(一) 芹田孝一作成の外川神社周辺見取図一枚及び同人撮影の外川神社周辺の写真一一葉について

弁護人は、これらの証拠によって、請求人がこれまで昭和二九年三月一〇日に宿泊した神社と主張してきたのは、右の神奈川県横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町一九六一九七番地所在の外川神社であり、右神社の存在をあらたに発見したから、これは請求人にアリバイがあることの明らかな証拠であると主張する。

その内容等に照らして新証拠であると認められる右各証拠のほか、原審において実施された証人芹田孝一に対する尋問調書並びに右外川神社及びその付近の検証調書等によると、昭和二九年三月一〇日ころの外川神社及びその周辺の状況は、請求人が原第一、二審において主張していた横浜市戸塚区平戸町三九二番地所在の光安寺よりも、はるかに、請求人が原第一審においてやや詳細な図面を書いた上申書に基き、三月一〇日に夜寝たと主張していた場所の状況に似ているものといわなければならない。しかしながら、原第一審において取り調べられた請求人作成の昭和三一年一月一六日付上申書には、三月一〇日夜寝た場所について、単に、「この夜は横浜駅よりうんと西へ下ったあるお宮にてねる。」とだけしか記載がなく、又、同じく請求人が同年五月一一日作成した図面にも、国道とその国道の横浜方面から見て左手に「お宮」として入口のある建物のみを記載したうえ、同図面に、「まわりの建物やお宮へ行く道順を忘れました。」と記載するのみであったのが、同年七月三〇日付上申書においては、やや詳細な図面(お宮が二つ)が書かれ、同年九月一一日の原第一審第一二回公判においては右図面を書くに至った経緯と三月一〇日に泊まったお宮につき詳細な供述をしたものであるが、請求人は、右公判において、「当初お宮は一つだと思っていたが、よく考えるとお宮は二つあった。このことは東京の検証(同年七月二五日実施)に行くずっと前に思い出していた。検証の帰りに汽車の中で紙と万年筆を借りて自分が思い出したことを書いた。そのとき書いた紙を見て七月三〇日付上申書を書いた。」旨、又、原審における請求人本人尋問においては、「自分は昭和二九年一月、東京の調布の近くの布田の方の日活撮影所の工事をするため渥美さんという人と一緒に働きに行ったが翌日一人でそこを飛び出し、新宿、東京駅を経て歩いて国道を通って静岡に向かったが、その際外川神社付近を通っており、遠くの方に、なんかこんもりした森があって、ああ、あの辺にはお宮さんがあるんじゃないかと自分で判断した。」旨供述しており、このことは、請求人が原第一審第一二回公判において三月一〇日夜泊まったところについての供述をなすに至った前後の状況から考えると、請求人は、布田からの帰りに見かけたところを、昭和三一年七月二五日の検証の帰途に汽車の中から見たところを基にして更に詳細に供述するに至ったのではないか、との疑いが生じるのである。

又、請求人は、原第一審及び原第二審の両検証において、自己が三月一〇日夜泊まった場所を光安寺である旨特定指示しているのであるが、前掲の請求人本人尋問において、右のように特定指示した理由を、「原第一審の検証の際、横浜方面から戸塚方面へ向かう車中では、自分の左側に体の大きな刑務官が乗っていたため進路左側が見えず外川神社を発見できずに通り越してしまった。そして、折り返して捜しに行くのも面倒だし、阿部検事から「ここじゃないか。」としつこく言われたので光安寺を三月一〇日夜に泊まった場所ということで特定してしまった。原第二審の検証の際は外川神社の近くまで行かなかったので、おかしいとは思ったが光安寺を指示した。」旨弁解しているが、犯行日当日である三月一〇日に請求人が泊まった場所の存否及び特定は、請求人のアリバイが成立するか否かを決する重要な要素であることは請求人においてもこれを認識していたものと認められるのに、「面倒だし、阿部検事から……しつこく言われたので……特定してしまった。」などという弁解は説得力をもたないし、又、原第一審判決で請求人のアリバイ主張が排斥されたのであるから、原第二審での検証が一層重要なものであることを請求人も十分認識していたと認められるのに、「おかしいとは思ったが光安寺を指示した。」旨の弁解は首肯できないものといわなければならない。

したがって、以上述べた請求人の供述経過からすると、芹田孝一作成の外川神社周辺見取図等の前記新証拠によって明らかになった外川神社の発見は、請求人がいつかの時点に外川神社にいたことの証拠にはなり得ても、それ以上に、三月一〇日の夜右外川神社に泊まったとする請求人のアリバイ供述を裏付ける手がかりとまでなるものではないというべきである。

(二) 気象庁所管の観測原簿拡大写真複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)について

弁護人は、右の証拠が、請求人のアリバイに関する供述、なかんずく、昭和二九年三月六日、七日は上京し上野駅付近にいた際雪にあった旨の供述の裏付けとなり、ひいては請求人のアリバイに関する供述全体の信用性を高める旨主張する。

右観測原簿拡大写真複写は、その内容等に照らして新証拠であると認められるが、請求人は三月六日、七日の天候に関し、原第一審第一二回公判において、「平塚から切符を買って出る時、それから上野へ着いた時、雪が降っており、七日の朝まで雪は降っておりました。積るような雪ではなく直ぐ融けてしまいました。」旨供述し、原審における請求人本人尋問においても同旨の供述をしているところ、右観測原簿拡大複写の東京関係分の天気概況の表によると(東京については千代田区大手町により観測されているので上野の天候も同じと考えられる。)、昭和二九年三月六日午後一時から午後八時までは降雪がないことが認められ、請求人が第一〇回公判で上野に着いた時間と供述している午後四時すぎは、右の表によって認められるとおり曇であったことに照らすと、請求人の「上野へ着いた時、雪が降っており、七日の朝まで雪は降っておりました。」との供述と合致せず、そうとすれば、前記新証拠をもって請求人の天候面からのアリバイに関する前記供述の裏付けとすることはできないものというべきである。

加えて、請求人は、原第一審第一〇回公判において初めてアリバイに関する詳細な供述をするようになったが、右供述においては、三月三日に島田の実兄宅を出てから自己の行動した日時を明白にするための拠りどころとなる天候に関して、弁護人の「家を出てから上野に行くまでの間の天気具合はどうであったか。」との質問に対し、一たんは、「それは覚えておりません。」と答えたが、裁判長の「東京にいる間に降られたことはなかったか。」との質問に対して、「雨に降られたことはないが、雪は一寸降ったかもしれません。」という程度の漠然とした供述しかし得なかったものが、原第一審第一二回公判においては、「三月五日、熱海と鴨の宮間でひどい雨にあった。鴨の宮で薪火をした時には雨はやんでいた。六日に、平塚から切符を買って出る時、それから上野へ着いた時、雪が降っており、七日の朝まで雪は降っていた。積るような雪ではなく直ぐ融けてしまった。一三日は、箱根山中で、箱根の空屋まで行く途中、雨とみぞれ混りのものに降られた。ここではずっと降ったわけではなく、降ったり止んだりだった。」旨天候と特定の日時を結び付けて詳細な供述をするに至った。請求人は、この間の事情につき、原第一審第一五回公判において裁判官から、「そのころの天気のことはいつごろ思い出したか。」と質問されたのに対し、「裁判所の方で質問があったのでだんだん考えてみたのです。」と答え、更に裁判官から、「一番初めに聞かれたころはどうだったか。」と質問されたのに対し、「全然判りませんでした。永い間考えていると少しずつ頭に出てきました。」と説明しているのである。

この点について、前掲の臨床心理学研究一四巻二号中の「赤堀裁判における精神鑑定書批判」と題する論文によれば、「請求人のような浮浪生活者にとって、風雨や雪、寒さ暑さといった天候等は生死にも関わる重大な関心事であり、それに関する記憶は残りやすいから、請求人がアリバイとして供述する三月六日、七日上野で雪にあったようなことは、強い印象を残し、回想の必要を呼び起こされれば想起されやすい経験であったのであるから、請求人が供述するような記憶喚起の経過に不自然なところはない。」というのであるが、請求人の右天候に関する供述経過をみるに、証人相田兵市の原第一審第四回公判における供述によると、請求人は三月三日実兄宅を出て以降の行動について捜査の初期の段階からこれを聞かれているのであり、右の時点で、既に、天候によって特定の日時と場所を結び付け自己のアリバイ行動を想起する必要にせまられていたというべきであるし、真実上野での雪を体験していれば、体験後三か月しか経過していない右の時点で容易にこれを想起し得たと思われるにもかかわらず、請求人が、原第一審第一回公判以来二年余を経過した同第一二回公判に至って、上野での雪の体験についての記憶を明確にした、ということ自体疑問であるといわなければならず、請求人の天候に関する供述経過は、そもそも不自然であって、真実、請求人の記憶に基くものであるか否か疑わしいものといわざるを得ない。

(三) 農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月、三月の各気象表写

弁護人は、右証拠によって、昭和二九年三月七日午前九時の右試験場の観測結果によれば天気は曇、前日である六日午前九時から翌七日午前九時までの間に二一・五ミリの雨雪量があり、以後八日午前九時まで雨雪量がないのであるから、松浦武志が請求人と会ったのが同月七日とすれば、同人が原第一審において、「その日は七時半ころ起きたが、そのときは百姓ができないくらいかなり降っていた。一一時ころ雨もだいぶ小降りになったので初倉に行った。一時帰るときにはそんなに降っていず傘をさすのがめんどうくさいぐらいだった。」旨供述しているところは信用できず、したがって、確定判決が、請求人のアリバイを否定する根拠の一つとしていた右供述が崩れた旨主張する。

その内容等に照らして新証拠であると認められる右各気象表写及び原審において実施された証人簗瀬好充に対する尋問調書によると、前記松浦武志が居住し請求人と会ったとする当時の榛原郡初倉村坂本(現在の島田市阪本)と金谷町所在の農林省茶業試験場とは五、六キロメートルの距離であり、右坂本近辺で最も近い観測所は右茶業試験場であること、そして右気象表には昭和二九年三月七日午前九時の右試験場の観測結果として、天気は曇、前日である同月六日の午前九時から同月七日の午前九時までの間に二一・五ミリの雨雪量があり、同時以後翌八日午前九時まで雨雪量がなかった旨の記載があることを認めることができる。一方、証人松浦武志の原第一審第一七回公判における供述によると、「昭和二九年三月に、久子ちゃんを八百屋の衆が探していることをこの人達から一二日ころ聞かされて知った。その日から一週間くらい前に請求人と会ったことがある。その日は午前七時半ころ起きたがその時は百姓ができないくらいかなり雨が降っていたので、当日予定していた麦のふりかけはできなかった。午前一一時ころ雨もだいぶ小降りになったので初倉の菓子屋へ借金を払いに行くため自転車で家を出た。一〇分くらいして通称前の坂という所で請求人が東へ向かって歩いていたので通り越してから呼びとめた。請求人は下まで行くと言ったので自分は同人を自転車の後ろに乗せて坂の下の自転車屋のところで降ろしてやり、別れた。自分はその後菓子屋に寄り金を払い、帰りに桜井弘昭の家に寄り一時間ばかり話をして午後一時ころ帰った。桜井は大河原運送に勤めていて、その日は雨が降って出勤するのがいやで仕事を休んでいた。一時ころ帰るときにはそんなに降っておらず傘をさすのがめんどうくさいぐらいだった。」旨供述しており、確定判決の認定のように桜井弘昭の大河原運送株式会社の勤務日誌等を総合して松浦武志が請求人と会ったのが昭和二九年三月七日とすると、同人の供述する天候状況は、右気象表の記載と符合しない。

右のような確定判決の認定に供された証拠として挙示されているもののうち、証人松浦武志の供述を裏付ける天候関係の証拠は、昭和三二年五月一四日付静岡測候所長作成の「気象状況調査について(回答)」と題する書面及び同月一六日付御前崎測候所長作成の「気象の照会について(回答)」と題する書面であるが、右静岡測候所長作成の回答書によると、昭和二九年三月七日午前六時から午後六時までの天候は雨のち曇午後雷雨であり、御前崎測候所長作成の回答書によると同日の天候は午前三時から午前一〇時まで雨、午前一一時から午後四時まで曇であって、静岡市と御前崎町の間に所在する前記榛原郡初倉村坂本の天候も右両所と同様であったと考えられなくもないが、それにしても、前記茶業試験場は右初倉村坂本とわずか五、六キロメートルしか離れておらず、静岡市や御前崎町よりもはるかに同所に近いのであるから、右試験場の観測結果は静岡市や御前崎町のそれよりも初倉村坂本の天候を表わすものとしてより妥当なものであるというべきであって、その観測結果(なお、前記気象表写及び証人簗瀬好充に対する尋問調書によると、右試験場での観測は一日一回しか行われないこと、昭和二九年二月一三日から三月二八日までのうち五日間については、天気と雨雪量の記載だけで、他の個所のように記事欄に降雪雨の時間帯の記載がなく、その理由も不明であることが認められるが、右のような事情があったからといって、前記認定の、昭和二九年三月六日午前九時から同月七日午前九時までの間の雨雪量が二一・五ミリであり、同時以後翌八日午前九時まで雨雪量がなかったとの同試験場の観測結果の信用性に影響を及ぼすものではない。)が前記のとおり松浦武志の供述と符合しないということは、確定判決における同証人の供述の信用性評価に疑いを入れる余地があるというべきである。しかしながら、松浦武志の供述の信用性に疑いが生じたとしても、請求人のアリバイ主張が採用できないことは、後述のとおりである。

4  以上のとおり、原審で提出された請求人のアリバイの主張を裏付ける証拠のうち主要なものと、松浦武志の供述の信用性を否定する証拠を検討してきた。そして、外川神社の発見も犯行日である三月一〇日の夜請求人が右神社に泊まったことを明らかにするものではないし、天候面からも請求人が同月六日、七日に東京の上野付近にいたとする同人のアリバイ供述を裏付けしていない。又、同月七日に請求人が上野で「濡髪の権八」という映画の看板を目撃したこと及び上野宝塚劇場の建設工事の進捗状況については、そもそも新証拠の提出がないし、請求人がこれらを見た日時を特定の日に結び付けることはできないとする、確定判決をした原第一審裁判所の判断をかえるべき特段の事情はない。そして、請求人の行動とその日時を証拠によって確定できるのは、請求人が同月三日島田市の実兄宅を出て、国鉄由比駅から荷物を送り返したこと及び同月一二日夜大磯地区警察署で取調べを受けたことであるが、その間については、日時、場所を特定して請求人の行動を裏付けるものがないのである。

更に、請求人のアリバイ主張を積極的に否定する証拠をみると、確定判決が掲げた松浦武志の供述については、前記新証拠である農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月、三月の各気象表写によって、同人が請求人と会ったのが昭和二九年三月七日とする同人の供述の信用性に疑いを入れる余地が生じたが、同月九日島田市近郊で請求人に会ったという原第一審における証人小山睦子の供述及びこれを裏付ける各証拠が存在し、これについては新証拠の提出がなく、原第一審裁判所の判断をかえるべき特段の事情はない。

したがって、以上の検討からすると、新証拠によって松浦武志の供述の信用性に疑いが生じても、なお、請求人のアリバイの主張を肯認することはできず、その他請求人のアリバイに関する主張を裏付けるために弁護人から提出された各証拠を検討してみても、右の認定に影響を及ぼすものはないというべきである。

第五結論

以上検討してきた結果は、次のとおりである。

確定判決においては、請求人を犯行と直接結び付ける証拠としては、請求人の捜査段階における自白調書(勾留質問調書も含む。以下同じ)があるだけであり、犯行の態様については、古畑鑑定と左胸部損傷用器の判明経過が右自白調書の真実性を担保する重要な意義を持つものであった。ところが、新証拠によって古畑鑑定の証拠価値が著しく減殺され、犯行順序が請求人の自白と合致しないのではないかとの疑いが生じ、左胸部損傷用器の判明経過も、右損傷が本件石によるものであることについて客観的証拠による裏付けを欠き、自白の真実性を高めるいわゆる「秘密の暴露」とはいえなくなったほか、陰部及び胸部の各損傷状況が自白と符合しない等請求人の自白調書は数々の疑点を内在させるものであることが明らかになった。そこで、右自白調書を再検討した結果、確定判決が掲げる理由をもってしては右自白調書の信用性を肯定する根拠とはなし難いうえ、犯行後の足どりに関する自白調書の中には明らかに客観的事実に反する供述が含まれているものがある。以上のような自白調書に内在する問題点を克服して、請求人の犯行を肯定することができるほど高度の真実性が請求人の自白調書に存するものとは認められず、したがって、確定判決の挙示する証拠だけで請求人を犯人と断定することは早計といわなければならない。

以上の次第で、新証拠によって請求人の自白の内容にいくつかの重大な疑点が生じたのであるから、もし、これらの新証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出され、これと既存の全証拠とを総合的に判断すれば、確定判決の有罪認定に合理的疑いを生じたものと認められるので、請求人に対し、無罪を言い渡すべき新規かつ明白な証拠を発見したときに該当するものというべきである。

よって、本件再審請求は理由があるから、刑事訴訟法四四八条一項により本件について再審を開始することとし、同条二項により請求人に対する死刑の執行を停止することとして主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 髙橋正之 裁判官 熊田俊博 裁判官 生島弘康)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例